応仁の乱が550年で「和睦」


 10年以上にわたって争乱が繰り広げられた「応仁の乱」が今年で勃発550年を迎えた。西軍大将・山名氏の末裔(まつえい)と東軍大将・細川氏ゆかりの団体代表の2人が5月下旬、戦端が開かれた地、京都市上京区で対談した。秘話や両家のその後についてなど多彩な話題で盛り上がり、約360人が耳を傾けた。
 応仁の乱は室町時代の1467年に始まった。細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が、現在の堀川通と小川通の周辺を境に対立した。
 対談は「応仁の乱-今輝け東陣を訪ねて」と題した催しで行われた。区民ら有志がつくる東陣プロジェクト実行委員会などが区役所で開いた。著名な西軍拠点の「西陣」に比べ、東軍の「東陣」は地域名として残らず知名度が低いため、東陣にスポットを当てて乱をあらためて考えようと企画した。
 両軍代表として、細川家の美術品などを保存・研究する永青文庫(東京都)の吉丸良治理事と、全国山名氏一族会の山名靖英理事長が登壇した。
 吉丸さんは、細川家では「先の戦」が太平洋戦争ではなく応仁の乱だという逸話を紹介した。「先代当主の護貞さんが『先の戦で文書などを大事に守ってきたが、かなり傷んでいるところがある』と言っていて、よく聞くと応仁の乱のことだった」と笑いを誘った。そして、その根本には貴重な文書や美術品を守る強い使命感があると指摘した。
 山名さんは「両家は親戚関係で、宗全の娘婿が勝元だった。本来はいがみ合う関係ではなく仲は良かった」と話した。宗全の人物像は「赤入道とあだ名があるほど直情型だったが、不正を許さない人で、背中から切りつけるようなことはしなかったようだ」とした。
 乱後も長く家名を保った両家。その理由は「文化」の力だったという意見が上がった。戦国・安土桃山時代の武将、細川幽斎は古今和歌集の解釈を伝授した当代随一の文化人。また山名豊国は武将としては大成しなかったが、連歌や茶をたしなむ高い教養を持ち、豊臣秀吉や徳川家康らの時代を生き抜いた。
 進行役の井上満郎・市歴史資料館長は、11年続いた乱で京都が戦場だったのは数年とし、「宗全と勝元の個人の戦いではなく、足利将軍家や有力大名の家督争い、利害対立で起きた」と背景を説明。その上で、乱が京都にもたらした意味を「破壊だけではない。街の自治を担う町衆が成立し、混乱の中で能や狂言、歌舞伎など今に伝わる文化も形づくられた」と評した。
 最後に、山名さんと吉丸さんが握手を交わして「和睦」し、聴衆が大いに沸いた。

応仁の乱が勃発して今年で550年の節目を迎えた記念の催し「応仁の乱-今輝け東陣を訪ねて」が5月21日、京都市上京区今出川通室町西入ルの区役所などで開かれる。東軍と西軍にゆかりのある人物を招いた対談などがあり、舞台となった上京区の乱と復興の過程をひもとく。

 室町期の1467年に応仁の乱は始まり、細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が今の堀川通と小川通の周辺を境に、にらみ合った。

 織物産業で有名な西軍拠点の「西陣」だけでなく、東軍の「東陣」についても知ってもらおうと、上京区民ら有志でつくる東陣プロジェクト実行委員会などが企画した。

 対談は午後2時から同区役所で開催。全国山名氏一族会の山名靖英理事長と、細川家の資料や美術品などを保存、研究する永青文庫の吉丸良治常務理事が両軍の代表として話し合う。市歴史資料館の井上満郎館長が進行役を務める。

 織田信長が上杉謙信に贈った国宝の「上杉本洛中洛外図屏風(びょうぶ)」を4分の3の大きさにした複製パネルや、室町期の復元衣装の展示もある。

 午前9時からは、細川勝元の屋敷跡に隣接する小川児童公園(小川通上立売下ル)で、東陣ゆかりの地として設置する説明板の除幕式を行う。

終戦直後。ある書物を探している人が、京都ゆかりの元首相近衛文麿を訪ね、陽明文庫(京都市右京区)に保管されていないか尋ねた。「戦争で焼けた」と言う近衛に、「疎開しなかったんですか」と聞くと、こう返ってきた。「焼けたのは、応仁の乱の時ですよ」

 このエピソードは、演劇評論家の故戸板康二さんが知人らから聞いた話をまとめた著作に出てくる。話の真偽は不明だが、京都人にとって先の戦は「応仁の乱」といううわさは全国で語られている。

 古都・京都へのあこがれと、裏返しのやっかみが入り交じって広まったのだろう。ウソに決まっていると疑いつつ、100人の京都人に「先の戦といえば」と聞いてみた。

 約7割は第2次世界大戦(太平洋戦争)と答えた。当然だろう。他都市ほどの被害はなかったとはいえ、市街地は空襲を受け、疎開で住み慣れた家を壊された市民も多い。

 「市外の人がおもしろがって言っているだけ」と一笑に付す人も多かった。ところが、応仁の乱と答えた人が3人いた。愛知県出身で滋賀県育ちの記者にとっては想定外だ。先の戦に「桶狭間の戦い」や「姉川の戦い」を挙げる知人は、誰一人いない。なぜなのか。

 「私たちにとっては特別な戦です」。祇園祭の山鉾(やまぼこ)町の一つ、太子山保存会理事長の川口良正さん(67)は、応仁の乱と答えた。

 平安時代に起源を持つ祇園祭は、応仁の乱が起きた1467年から33年間も途絶えた。一方、第2次大戦による山鉾巡行の中断は4年間だけだ。

 「戦乱で町衆の結束力が強まり、祇園祭再興の原動力になった」。荒廃した京都は乱後、急速に復興し、現在の「上京」「下京」の原形ができる。祇園祭は復興の象徴だった。「戦後という言葉には、戦争被害、その後の復興という二つの意味が含まれていると思う。それは応仁の乱にも当てはまる」と、川口さんは力説する。

 回答者の1人、左京区の中村文さん(72)宅には、先祖の戒名と亡くなった年月日を記した古い台帳が残る。「乱後の台帳はあるが、それ以前のものは焼けたのか、無い。そういう意味で、先の戦といえば応仁の乱をイメージします」と話す。

 アンケートでは「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(1864年)と答えた人も2人いた。市考古資料館の山本雅和副館長(53)は「蛤御門の変の方が、京都の街は焼けた。『どんどん焼け』とも言われ、大火の印象が強いからですかね」。

 今年は応仁の乱からちょうど550年。「先の戦」の記憶は京都の街にとってそこから始まり、歴史の変遷とともに、新たな記憶が刻み込まれている。

京都・西陣の地名誕生から550年を機に地域の将来像を考える「西陣活性化有識者会議」の初会合が8日、京都市上京区の西陣織会館で開かれた。基幹産業である西陣織の出荷額が四半世紀で9割減少する中、打開策を探ろうと西陣織工業組合が設置。観光やまちづくりも含めた「西陣ビジョン」を今秋をめどに策定するため、メンバーの織物業者や学識者らが議論をスタートさせた。

 西陣の地名は1467年に始まった応仁の乱で西軍の陣地が置かれたことに由来することから、同組合は今年、西陣発祥550年として記念事業を展開している。有識者会議はその一環で、織物の生産体制の再編や歴史を生かした観光振興策などを考える。

 この日は、織物業者や大学の研究者、金融機関、西陣地域にある神社関係者ら委員約50人が参加。同組合が、産地の厳しい実態として、組合員の企業数が2014年までの40年間で3分の1の321社に減り、出荷額も1990年の2795億円に比べて14年は334億円にまで落ち込んだと報告した。

 続いて委員が「西陣の持ち味、魅力」をテーマに議論し、「職住一体が地域の魅力。職を維持することが大切」「大学が多い利点を生かし、学生の若い力を活用してはどうか」などと意見を交換した。

江戸や明治期などに製作された古地図から現在の京都や日本を考える「古地図展」が9月3日から、京都市南区東九条の「長谷川歴史・文化・交流の家」(長谷川家住宅)で始まる。築約270年の農家住宅である同住宅に所蔵されていた15点が並び、街の変遷やかつての日本人が見た世界を浮かび上がらせる。

 「中昔京師地図(なかむかしけいしちず)」は、応仁の乱後の1480年~1580年ごろの京都を、江戸期の学者・森幸安が文献資料から1753(宝暦3)年に描き起こしたものの模写という。北は大徳寺、南は東寺周辺までが描かれている。

 「大成京細見地図(たいせいきょうさいけんちず)」は幕末の京都市街を描いている。京都府庁の場所に「御用御ヤシキ」とあり、京都守護職を務めていた会津藩主の松平容保の公邸を示している。

 2種類ある「東九条村図」は、江戸期の東九条村(現南区東九条)でどのように土地が利用されていたかなどを今に伝えている。

 オランダの航海地図を基に1861(文久元)年に製作された世界地図「新刊輿地全図(しんかんよちぜんず)」をはじめ、樺太や千島列島、清国など外の世界に目を向けた地図もある。

 監修した佛教大の伊東宗裕非常勤講師は「地域に関係するものだけではなく、世界地図などがある。当時の農村の指導者層が地理的な情報や日本を取り巻く情勢について、どん欲に知識を得ようとしていたことが分かる」と話す。

 長谷川家住宅は、国の登録有形文化財で、地図や文書など貴重な資料が数多く残っている。

 9月18日と10月16日、11月20日の午後2時からは伊東さんによる展示解説がある。