歴史が明らかに! | 龍馬潜伏の伏見屋敷の絵図を発見!


坂本竜馬が「寺田屋事件」で襲われた後、潜伏したことで知られる薩摩藩伏見屋敷の間取りを記した絵図が、新たに発見された。

屋敷のあった場所は判明していたが、詳細な建物や部屋の配置が明らかになるのは初めて。城南宮(京都市伏見区)の宮司が古書店から購入したもので、3日に発表した。
発見された「薩摩藩伏見屋敷絵図」は縦約1メートル、横約1.3メートル。「天明六(1786)年」の記載があり、寺田屋事件の80年前に作成されたとみられる。
慶応2(1866)年、伏見の寺田屋で幕府奉行所の捕り方に襲われ負傷した竜馬は、薩摩藩に救出された。船で屋敷に運び込まれ、一週間ほど滞在したとの記録がある。
絵図を調査した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「寺田屋事件当時の間取りは、絵図作成時からほぼ変わっていないと思われる。幕末史を知る貴重な史料だ」と話した。竜馬は、屋敷の北東部にあった「御仮屋守居所(おかりやもりきょしょ)」という、管理人の詰め所に運ばれた可能性があるという。
絵図は4日から城南宮で、7月25日から京都国立博物館で公開される。 

■暗殺直前の龍馬の手紙新たに発見
土佐藩出身の幕末の志士、坂本龍馬が150年前の1867年に京都で暗殺される直前に書いた書状が新たに見つかったと13日、高知県が発表した。
龍馬研究の第一人者である京都国立博物館の宮川禎一上席研究員らが鑑定し、筆跡、内容とも本人のものと判断されたという。暗殺される5日前の日付が記され、福井藩の重役に宛て、同藩士の三岡八郎(後に「五か条の御誓文」を起案した由利公正)を新政府の財政担当として出仕させるよう懇願する文が書かれていた。龍馬はこの直前に福井を訪ね、三岡と会談していた。
龍馬の他の手紙にはない「新国家」という言葉が使われており、大政奉還を受け、設立が急がれていた新政府の財政問題の解決に龍馬が奔走していたことを裏付ける歴史的価値の高い史料だという。
3年前にも、龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣・後藤象二郎に宛てた書状「越行の記」の草稿が見つかっており、三岡を強く推挙することなどが書かれていた。今回の書状はこれに続くものとみられる。
書状は個人が所蔵し、「他見をはばかるものなり」と書かれた付箋が付いた封紙に折り畳まれて入っていたため、150年も出てこなかったのではないかという。
書状は3月4日から高知市で開かれる「志国高知 幕末維新博」で公開される。

■暗殺の様子再現
今なお高い人気を誇る幕末の志士、坂本龍馬の生涯を紹介する「土佐からきたぜよ! 坂本龍馬展」が1日、ホテル雅叙園東京(東京都目黒区)で始まった。龍馬の愛刀や初公開の手紙をはじめ、ゆかりの人物の遺品など約70点を、同ホテル内の東京都有形文化財「百段階段」で披露。暗殺の様子を再現した影絵も公開している。
高知県坂本龍馬記念館は現在、改装工事のため休館しており、今回、貴重な収蔵品が東京にやって来ることになった。会場は、百段階段の最も下にある「十畝の間」から最上階の「頂上の間」まで7つの部屋。激動の時代を駆け抜けた龍馬が体感できる展示構成となっている。
注目は、龍馬が愛用した脇差しと、2014年に発見され、初公開となる土佐藩・後藤象二郎への書簡「越行の記」。このほか、姉の乙女が締めた帯や土佐勤王党で共に活動し、「人斬り以蔵」の異名を取る岡田以蔵が所有していたとされる拳銃なども披露されている。
龍馬が免許皆伝した北辰一刀流を現代に受け継ぐ「北辰一刀流・玄武館」監修の京都・近江屋での暗殺シーンは迫力満点だ。等身大のシルエットで現れる龍馬と中岡慎太郎が、無残に襲われる様子を臨場感あふれる映像と音で表現している。





■坂本龍馬
さかもと・りょうま(1835~1867)
土佐藩郷士坂本家に生まれる。1853(嘉永6)年、江戸に遊学し、ペリー来航を目の当たりにして攘夷論者になったとされる。62(文久2)年に脱藩後、幕臣・勝海舟の開国論に刺激を受け、その門人となる。神戸海軍操練所に併設された海舟の私塾「神戸海軍塾」では塾頭となり、近代海軍の設立を目指す海舟の手足となって働いた。幕府内で海舟への批判が高まり操練所が閉鎖されると、長崎で海運業や航海術育成を行う亀山社中を設立、これが後に海援隊へ発展する。
 66(慶応2)年1月、龍馬は対立していた薩摩藩と長州藩を同盟させることに成功し、倒幕体制の基盤を固めるが、幕府側からは危険人物とみなされ、命を狙われるようになる。同年6月に龍馬が提案した「船中八策」は前土佐藩主・山内容堂に認められ、容堂が建白した大政奉還として実現する。同年11月、京都・近江屋で暗殺される。犯人は特定されていない。