ドムドムとマックとの「因縁」とは


■ドムドムはマクドナルドよりも長い歴史を持つ最古参

 ドムドムハンバーガー。ダイエー最盛期を知る世代なら、この名前に親しみのある人は少なくないはずだ。主にダイエー店内の食品売り場に併設されるハンバーガーショップとして、1970年から歴史を刻んできた。働き盛りの30~40代の人の中には「子どもの頃、休日に親との買い物の帰りに寄った」という思い出があるかもしれない。

 そのドムドムが、ダイエーグループを離れる。運営元のダイエー子会社、オレンジフードコート(本社・東京都江東区)が、ホテル事業などを手がけるレンブラントホールディングス(本社:神奈川県厚木市)に「ドムドムハンバーガー」現55店舗のうち36店舗を7月にも譲渡。残りの店舗はクレープ店などへの事業転換を検討している。

 知る人ぞ知る話だが、ドムドムは日本のハンバーガーチェーンとしてはあのマクドナルドよりも長い歴史を持つ最古参。ダイエーの外食事業におけるフラッグシップ(旗艦)として、最盛期の1997年には全国に355店を展開したが、その後は縮小の一途をたどってきた。

 もちろん、親会社であるダイエーグループ自体の凋落(ちょうらく)は最大の要因に挙げられる。ただ、それだけでは片付けられない。これを読み解くためにはダイエー創業者・中内功(力=突き抜けない)とマクドナルドとの浅からぬ因縁、そしてダイエーがドムドムと併せて手がけた「ウェンディーズ」の歴史も理解しておく必要がある。

 ドムドムは、中内の肝いりでスタートしたビジネスだ。中内は経営コンサルタントの渥美俊一が1962年に立ち上げたチェーンストア経営研究団体「ペガサスクラブ」の設立時からの会員であった。ペガサスクラブは設立時から流通革命・チェーンストア経営の本場である米国の流通業界、外食産業などの視察・研修ツアーを実施した。

 中内は好奇心が強く新しい物好きで、ツアー参加の常連であった。海外に出かけ面白い商品やヒットしそうな外食業態があると積極的に導入した。中内は1965年に米国の株式市場に上場、急成長を続けるハンバーガーチェーンのマクドナルドに着目、エリアフランチャイズ(AFC)契約を結び、ダイエー店内などに展開し集客の目玉にしたいと考えた。

1969年の第2次資本自由化は外食自由化とも呼ばれ、海外から外食企業が日本を目指そうとしていた。中内は商社ルートなどを活用、マクドナルド創業者のレイ・クロックに会い、マクドナルドの日本におけるエリアフランチャイジー契約を申し出た。

 通訳をつけた中内とクロックとの契約交渉は何回か行われ、調印寸前まで進んだという。だが中内とクロックとの交渉は、合弁会社の出資金で折り合わなかった。クロックが「50%:50%」を主張するのに対して、中内は「ダイエー51%:米国マクドナルド49%」を主張し、経営の主導権を取ることに固執したからだ。

■日本マクドナルド創業者の藤田田とは

 そんな時にクロックと会談したのが日本マクドナルド創業者の藤田田だった。

 藤田は東大法学部時代、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で通訳のアルバイトをして高給を得た。金儲けのうまいユダヤ人の軍人と知り合い、ユダヤ商法の「女と口を狙え!」をはじめとするさまざまな教えを受けた。在学中の1950年(昭和25年)、輸入商社の「藤田商店」を創業、三越などに女性を狙った高級雑貨、貴金属などを卸していた。“銀座のユダヤ商人”を自称、米国にも支店を置くなど1960年代半ばには米国のユダヤ人社会などでは知られたビジネスマンになっていた。

 藤田は藤田商店のユダヤ系の米国支店長の紹介で、クロックと1対1で会った。クロックはチェコ系ユダヤ人を両親に持ち、ユダヤ人社会に明るい藤田に好感を持っていた。藤田が自著などでよく語るのは、「15分程度話しているうちに、クロックから『日本でマクドナルドのチェーン展開をやらないか』と、熱心に誘われた」ということだ。

 そこで藤田はダメでもともとだと、「出資金50%:50%」「社長以下全社員を日本人とする」という条件を突きつけた。事実上、日本が主導権を握る条件であったが、クロックは藤田が提案した条件を丸のみした。

ダイエーの中内の側近の1人で、ダイエー子会社だった英国風パブ「HUB」(100店舗展開)の元社長・会長を務めた金鹿研一(75)は証言する。

 「藤田田さんが横やりを入れて米国マクドナルドの契約を結んだ結果、中内さんは調印寸前までいった契約を破棄され激怒します。中内さんが簡単に引き下がるわけはなく、『よし、それならばダイエーグループの総力を結集して、自前のハンバーガーを作ってやる!』と、号令一下プロジェクトチームを立ち上げるのです。周りの反対には一切耳を傾けず、ドムドムハンバーガーの開発を進めました」

 ダイエーの外食産業の旗艦となるドムドムは、「藤田マクドナルド、憎し!」の一念で、開発がスタートしたのだ。この時から「藤田マクドナルド」と「中内ドムドムハンバーガー」との因縁の戦いが始まった。


 中内は取引先の食品メーカー、コーヒーメーカーなどとプロジェクトチームを立ち上げ、試作を繰り返した。1970年2月、株式会社ドムドムを設立。ダイエー町田店内に日本最初のハンバーガー店「ドムドムハンバーガー」1号店をオープンした。これを機に中内はダイエーの店舗内や店舗の近く、また「KIOSK」と取引があった関係で、JRグループの駅構内や駅の隣に出店していった。

■日本人にカルチャーショックを与えた

 藤田田が銀座三越の1階に日本マクドナルドの1号店を開店したのは、「ドムドムハンバーガー」が1号店を開店してから1年5カ月後の1971年7月のことであった。マクドナルド銀座店は当初15坪(50㎡)の持ち帰り専門店であった。

 ハンバーガー1個80円、コーヒー1杯50円、コーラ1杯60円。当時の大卒初任給が4万6400円。同年8月から日曜祭日に限り歩行者天国がスタート、銀座通り(公道)にはパラソルを広げた丸テーブルがあちこちに出現した。公道がマクドナルド銀座店の臨時の客席として使われた。また左手にコーラ、右手にハンバーガーを持った若者たちが、ハンバーガーを歩きながらパクついたり、コーラを飲んだりした。マクドナルド銀座店は開店2~3カ月もすると、歩行者天国の若者や家族連れなども取り込み、日商が100万円を突破した。

日本マクドナルド社長の藤田田は著書『ユダヤの商法』の中で、「ハンバーガーの客は1日に1万人以上。ハンバーガーと一緒に売れるコーラが1日6000本」と記している。予想以上に売れて、働き詰めのレジがよく壊れたと書いている。

 マクドナルド銀座店は米国風の食スタイルを出現させ、日本人にカルチャーショックを与えた。一方、ドムドムは日本発祥のローカルハンバーガーの域を出ず、藤田マクドナルドのようなインパクトに欠けた。多くの日本人がドムドムではなく、マクドナルド銀座店が日本最初のハンバーガー店だと思った。藤田は銀座店の大成功をバネに、その後、全国3000店舗を超す巨大なハンバーガーチェーンをつくっていった。

 日本マクドナルドが大成功したのは、「出資金50%:50%」「社長以下全社員を日本人とする」という日本優位の条件で、社長の藤田が「文化は高きから低きに流れる」と、日本文化の発祥地である銀座で1号店を始めたことが大きかった。

 特に米国マクドナルドに支払うロイヤルティを破格の条件で決めたことが、成功を決定づけた。日本マクドナルドは米国マクドナルドと藤田商店との合弁企業として設立された。日本マクドナルドに対しては、米国マクドナルドがハンバーガーの製造・販売に関するマニュアル、スペック、オペレーションシステムを提供し、藤田商店がマネージメントサービスを提供するという取り決めであった。

 「そして、米国マクドナルドと藤田商店は、これら技術ないしはサービス提供の対価として、日本マクドナルドの売上高のそれぞれ1%相当額のフィーを受け取る……」(『藤田商店商法』――2001年7月、藤田商店発行。非売品)という契約であった。

 「ここに出て来る1%相当額のフィー」というのが、ロイヤルティに当てはまる。クロックは藤田とのエリアフランチャイズ契約の交渉で当初、「米国マクドナルドのロイヤルティ5%」を主張した。マクドナルドと同時期に日本に上陸したケンタッキー・フライド・チキン(KFC)もロイヤルティは5%だったといわれる。

藤田は「ロイヤルティ5%は高すぎる。そんなに払ったらマクドナルドの経営が成り立たない」と、主張。ロイヤルティの引き下げ交渉を行った。その結果、藤田とクロックはロイヤルティを売上高の2%とし、その2%を前述したように藤田商店と米国マクドナルドとで1%対1%の折半で受け取ることにした。

■FC契約の常識を無視した“異例の契約”

 これはFC契約の常識を無視した“異例の契約”であった。クロックと藤田の堅い信頼関係があったからこそできた契約であった。ちなみに契約期間は当初1971年から1991年までの20年であったが、後に2001年までの30年に延長された。

 たったの1%でも売上高が1000億円であれば、10億円のロイヤルティが発生する。クロックはなぜ日本マクドナルドの藤田をそこまで優遇したのか。それについては諸説があるが、クロックは日本市場でマクドナルドのハンバーガーは広まらないと見ていた節がある。

 日本国民は歴史的にコメ・みそ汁、魚や刺身、漬け物、緑茶など伝統的な和食文化が長く、パンや牛肉、コーラ、コーヒーといった洋食文化に慣れていなかったからだ。クロックは場合によっては日本マクドナルドが失敗すると見て、藤田の言いたい放題の契約条件をのみ、ダイエーの中内との契約は失敗した時の訴訟沙汰も大がかりになることが予想され、拒んだのではないか。

 余談だが、藤田は日本マクドナルドを大成功させた。クロックが藤田をあまりにも優遇したことが、1984年にクロックが亡くなった後にクローズアップされ、米国マクドナルドの経営陣と藤田との不仲に発展していった。

 中内はドムドムではとてもマクドナルドに対抗できないと思い、次の対策を取った。それが1970年代後半に米国でマックキラーと呼ばれて急成長していた「ウェンディーズ」の導入であった。

 ダイエーは「ドムドムハンバーガー」を運営する「ドムドム」を「ウェンコ・ジャパン」と社名変更し、ウェンディーズの受け皿とした。社内にはドムドム事業部とウェンディーズ事業部ができた。

1980年5月、銀座7丁目の中央通り沿いにウェンディーズ1号店がオープンした。藤田マクドナルドに約20年勤めた外食コンサルタントの王利彰(70、元・立教大学大学院教授)はこう回想する。

 「私は1980年2月、マクドナルドの神奈川、静岡方面を統括するスーパーバイザーを務めていました。マクドナルドが横浜市の青葉台にオープンした時、ドムドムハンバーガー青葉台店のT店長と知り合い、仲良くなりました。ドムドムは価格設定をマクドナルドと同じにして対抗、一方ではコロッケバーガーとか、お好み焼きバーガーなど独自のメニューを投入、結構人気がありました。

 もちろんウェンディーズ銀座1号店の視察に行きましたが、銀座としては場所が悪く、その割に家賃は高額で、客足は伸びず赤字垂れ流しの店でした。ダイエーはウェンディーズとフランチャイジー契約を結び、『20年以内に100店舗以上出店すること』を求められました。また、ドムドムハンバーガーは出店場所、店舗形態、メニュー戦略などが規制され、それまでの勢いを失っていきます」

■ウェンディーズはマクドナルドのような勢いがなかった

 ダイエーの中内がマクドナルド追撃の切り札として展開したハンバーガーチェーンのウェンディーズは、銀座・原宿・青山など一等地にドミナント出店する作戦を取ったが、マクドナルドのような勢いがなかった。

 バブル時代の1980年代後半には店舗の入居時の保証金や賃料の負担が重く、売り上げはあっても利益が出ない体質だった。収益力の高いドムドムが、ウェンディーズの赤字を補塡する格好になった。そのためドムドムハンバーガーをウェンディーズに業態転換したのは横浜の青葉台店など数店舗にとどまった。この時点でダイエーは「二兎を追う者は一兎をも得ず」という迷路に入ってしまった。

 ダイエーは土地の値上がりを前提として借金を重ね事業展開してきたが、バブル崩壊で“中内流錬金術”に限界が出て来た。加えて1995年1月、阪神・淡路大震災に襲われ、大阪や神戸など関西を地盤としてきたダイエーは金銭的にも甚大な被害を受け、転落を始めた。そして、2000年に起こったダイエー関連会社株へのインサイダー取引疑惑で、鳥羽董社長と中内会長は全面衝突。中内は代表権返上へ追い込まれた。そして2001年には「時代が変わった」と言ってダイエーを退任した。

ダイエーのカリスマ、中内が手がけたドムドムやウェンディーズのハンバーガー事業は、ここで事実上の終焉を迎えた。ウェンディーズの株式はダイエーが外食大手のゼンショーに売却した。そしてゼンショーは2009年12月、米国ウェンディーズとのフランチャイズ契約満了を機に、契約を更新せず、事業終了という形で全71店舗を閉店した。


 その後、ウェンディーズは2011年3月、米国のドミノ・ピザを日本市場に定着させたヒガ・インダストリーズと資本業務提携し、「ウェンディーズ・ジャパン合同会社」を設立した。再上陸したウェンディーズの第1号店は2011年12月、東京・表参道に開店した。それから新規出店はなかったが、ウェンディーズ・ジャパン合同会社は2016年6月に136店舖を展開するサントリー系のファーストキッチンを買収し、コラボ戦略に活路を求めた。

■ハンバーガーショップをめぐる競争環境が激化している

 レンブラントに傘下入りした後のドムドムの再建については、懐疑的な見方も多い。ハンバーガーショップをめぐる競争環境が激しさを増しているからだ。

 相次ぐ不祥事で業績を悪化させ、大量の店舗閉鎖に追い込まれた日本マクドナルドホールディングスは、2016年12月期で3期ぶりに53億円の黒字に転換、復活を遂げている。一方ではアメリカから高級ハンバーガーの「シェイクシャック」や「カールスジュニア」などが上陸、日本のハンバーガー戦争は高級化、多様化の様子を見せている。

 マクドナルドの勢いにおされて下位のハンバーガーチェーンは、ウェンディーズのように、合併・再編に活路を見いだしている。昨年12月にはコロワイド傘下で「牛角」などを展開するレインズインターナショナルがフレッシュネスバーガー(直営・FC159店舗展開)を買収した。「牛角」のFCオーナーなどにフレッシュネスバーガーのFC展開を勧めるという。

 ある有力ハンバーガーチェーンの幹部は言う。

 「ハンバーガービジネスは薄利多売の典型的な商品。本当に儲けを出せるのは圧倒的な店舗数を持ち、システムを確立した日本マクドナルドとモスバーガーくらいです。競争環境が激しい中で規模の小さなドムドムが単独で生き残るのは、非常に難しく、再び売却される可能性があるのではないでしょうか」

 中内と藤田、そしてクロック。振り返ってみれば、今から50年近く前に三者の取った行動と決断が、日本におけるハンバーガーショップ業界の歴史を大きく左右した。中内がつくった日本初のハンバーガーショップ・ドムドムは、マクドナルドに対抗するという当初の夢を果たせず、一時代を築いたダイエーグループからもついに切り離されることになった。


■全盛期は400店舗を誇ったダイエーグループの「ドムドムハンバーガー」
米マクドナルドとダイエーの主導権争いでご破算に
ダイエーと米マクドナルドは双方の出資による合弁会社を設立し、日本での事業展開を計画していた。
しかし、合弁会社の資本比率で米マクドナルド側が50%ずつを主張したのに対し、ダイエー側は主導権を握れる51%以上を主張したため、この計画はご破算となってしまった。
そこでダイエーは、独自の研究下でハンバーガーチェーンを展開することとなった。こうして生まれたのがドムドムハンバーガーである。

「ドムドムハンバーガー」名前の由来は「良い品をどんどん安く」
ドムドムハンバーガーの名前の由来は、親会社であったダイエーの企業理念「良い品をどんどん安く」のどんどんを取ったもの。
しかし、「どんどん(DONDON)」は商標登録されていたため、ドムドムハンバーガー(DOMDOM)となった。また、マークのゾウは「どむぞうくん」というマスコットキャラクターで、「象のように親しみやすく」という意味を込めて誕生した。

「ドムドムハンバーガー」が「ウェンディーズ」を出店することに
1980年に、親会社のダイエーはアメリカの大手ハンバーガーチェーンであるウェンディーズと手を結ぶこととなった。
しかし、ウェンディーズ側は「20年以内に100店舗以上、ウェンディーズを出店」することをダイエー側に要求したため、ダイエー側はダイエー内に入居しているドムドムハンバーガーをウェンディーズに転換することで対応した。そのため、ドムドムハンバーガーは店舗数を減らすこととなる。