ミュージカル『刀剣乱舞』 ~三百年の子守唄~ 感想ツイートまとめ -質問箱から-

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ご推薦ありがとうございます。お返事遅れてしまって申し訳ありません。
タイムシフト予約は間に合ったので、今後是非に見させていただきます。感想もこのツイートにぶら下げる形で書きますね。

見させていただいたので、感想を書きます。 当方男性それなりにいい年、刀剣乱舞はゲーム未体験、アニメは花丸、活劇両方共視聴、その他のメディアには特に触れていない状態です。 にわかの勝手な読み、かつ周回遅れの視聴なので的外れな発言も多数あると思いますが、ご容赦を。

まず全体として、とても楽しかったです。 2.5次元舞台も実は初鑑賞だったのですが、化粧や意匠、髪型などのヴィジュアルを2次元に近づける努力が隙なくなされ、アニメとは違った質感の刀剣男子がスックとそこに立っている心地よい違和感を、最初から楽しむことが出来ました。

役者さんもリキが入った演技をしてくれて、立ち居姿に殺陣、台詞回し、目線の使い方など、刀剣男子を現実に立たせるべく入魂の芝居を見せてくれました。 特に蜻蛉切役の方は圧倒的な声量と存在感で、蜻蛉切の分厚さを間近に感じることが出来た。

演出面はやや持ちすぎな部分も感じつつ、プロジェクションマッピングを駆使したケレンが巧く生きて、刀剣乱舞のSF的な味、ネオ時代劇としての派手さが出ていました。 と思えば役者の肉体を最大限に駆使した、検非違使との最終決戦でのスローでも見せてくれて、技術と身体がいいバランスでした。

殺陣はミュージカルという舞台立てを活かした軽快なアクションあり、刀剣を通じて対話する無音のぶつかり合いありで、上手い使い方をしたと思います。 石切丸と大倶梨伽羅がお互いの魂を伝え合う二回の鍔迫りは、役者の荒い息を巧く拾って体温を出していて、とても良かったです。

ストーリーですが、時間遡行軍に殺された側近に成り代わり、徳川家康(ならびに松平信康)を育て、守り、適切な時に殺す展開が、定命の人間とは違う時、違う使命を帯びた刀剣男子を巧く際立たせていたと思います。

キャラクターは様々な葛藤を抱えつつ、家康と一緒に人にまじり、人を知っていく。石切丸は神刀と人斬り包丁の狭間で悩み、大倶梨伽羅は愛を拒絶し戦に逃げ込む『軽さ』と戦う。 この二人を主軸に据えつつ、妖刀の定めとか、主への過剰な思いとかを乗り越えていくことで、話は前に進む。

この構図がとても良かったですね。刀剣男子は超越者なんですが、同時に心を手に入れてしまった人間でもあって。その矛盾が、赤ん坊から青年、親、為政者となっていく家康に寄り添う(あるいはそこに馴染めない)ことで浮き彫りになる、と。

それだけなら刀剣男子である必要もないのですが、ここで『定められた歴史を守る』というもう一つのカルマが大事になってくる。 史実を守るなら、家康を助けたように延安を切らなければいけない。だがふたりとも、年を経ぬ刀剣男子にとってはその腕で抱いた赤子であり、叶うなら守りたい。

しかしそうしてしまえば、自分たちが切り捨てる時間遡行群と同じ存在になってしまう。場を取って定めを曲げるか、情を切り捨てて定めを果たすか。 超越者であるがゆえの悩みが、常に刀剣男子を覆っています。この二重の悩みの中で、刀剣男子たちは思い悩み、先に進んでいく。

じつはこの悩みに苛まれているのは人間側も同じで、徳川家頭領としての家康は、戦を嫌いつつ戦をし続けなければならんし、必要とあれば愛する我が子も切り捨てなければいけない。 世の中の定めのための装置として、情を捨てて任を果たさなければいけないのは、刀剣男子もその子供も同じである。

信康は、当時(もしかしたら今も)当然視されている身分の壁を乗り越え、農民のゴツゴツした手を握れる優しい男だった。 しかしその優しさは武士としては欠点であり、徳川次代当主としての機能を果たせないと思い悩んだ彼は、服部半蔵=石切丸に刀の本分を果たして欲しいとすがる。

子が親に、殺してくれと頼まざるをえない歪み。人を殺さなくていい時代を造るために、人を殺し続ける矛盾。 登場人物は軒並みこれに苛まれつつ、修羅の巷を前に進み、役割を果たしていきます。この食いしばりがちゃんと見えるのが、とても良かった。

全体的に家康サイドを肯定しながら進む物語ですが、クネクネキモい(褒め言葉)村正が『徳川にあだなす妖刀』というイメージを活かし、視聴者の思い込みを巧く舞台に持ち込んでいました。 『家康狸爺なんじゃないの?』とか『言うたかて大量殺戮者でしょ?』とか。

村正をトリックスターとして使うことで、そして同じ村正一派として蜻蛉切を配置し、彼を孤立させないことで、基本家康・信康という『我が子』を慈しみつつ、そこで閉じてしまわない空気穴が開いて、村正が出たり入ったりすることで動きが生まれる。場が固まりすぎない。 固める仕事は物吉くん頑張った

最初は離れた場所にいた大倶利伽羅も村正も、家康の側に仕える刀剣男子とふれあいつつ、あるいは定命の人間に巻き込まれつつ、だんだん『徳川』に近づいていく。心が変わっていく。 運命の脚本を既に知っていて、それを間違えないために側近を演じる役者なのに、柔らかい情があり心が揺らぐ。

そういう曖昧で大事な揺らぎが、『舞台』という役を演じつつ虚構を乗り越え感動を作っていくメディアと巧く噛み合って、独特の面白さを産んでいたと思います。 刀剣男子が演じる徳川四天王の物語を、現実の役者が演じ僕らが見る、という二重構造が、不思議な残響になってよく響くのですね。

さて冒頭、『赤子を切った』にっかりと『神刀』石切丸は任務の途中で赤子を拾い、長い演劇に巻き込まれていきます。 赤子を育てることで物品として刻まれた己のカルマを浄罪せんとするにっかりに対し、石切丸さんは様々なものを一人で抱え込み、正しくあろうとする。

しかし人間を演じるということは、人間が投げ込まれている(そして刀剣男子が超越している)修羅界に身を投じるということであり、時間遡行軍ではなく生身の人間を、敵として切ることになる。 そうしなければ、史実通りの歴史を演じる使命は果たせない。

人を切らずに悪因病根を切り捨て続けた石切丸にとって、その手に抱いた家康の体温も、至近距離で浴びる敵の血しぶきも、みなヒトの生きた証であり、刀剣男子として守らねばならない歴史の波濤。 しかし、服部半蔵としては敵を切り、主君の道を切り開く修羅道以外にない。

石切劔箭神社に祀られた、地蔵菩薩のような慈愛だけでは渡っていけない『人間』としての必死の演技に苦しみながら、彼は誰も死なない平穏を作り上げるべく、徳川側近・服部半蔵を演じ続ける。 その心には、修羅を見据えつつ菩薩心を抱く明王の悲痛が、みっしりと詰まっている。

これに対し、人に交わることを避け、孤高に戦おうとする大倶利伽羅は、石切丸の葛藤を『それが戦だ』と切り捨てる。 修羅の道しか見ようとしない彼は、世界に菩薩心があり、血しぶき以外の笑いや喜びが満ちているというもう一方の側面を、肌で感じることはない。

神刀として殺すことなく人に交わり、また家康の親としてその温もりを知っている石切丸さんにとって、大倶利伽羅の一方的な太刀筋は、明王の剣としては『軽い』 修羅の地獄を見据えた上で、それでも人の本性は仏になりうるのだと信じられる剣こそが、石切さんの求める不動明王倶利伽羅剣だから。

そんな彼も百姓吾平を弟子に迎え、心を通わせるうちに菩薩の境涯に少し触れる。人にはぬくもりがあり、刀の俺にも心がある。 それはとても大事だからこそ、奪われればつくづく痛むけれども、人に交わる以上必ず生まれてしまう。大倶利伽羅はその優しさが怖くて、『徳川』から離れていた。

愛別離苦。吾平は大倶利伽羅を庇って傷つき、戦のない(≒人斬り包丁である刀剣男子が任務を果たせない)世界を望んで死ぬ。 その時、大倶利伽羅は愛をもぎ取られ、経験したくなかった離別を刻み込まれる。それは愛が生まれる限り必ず発生する、業のこもった痛み。

それを身に刻まれることで、彼は銘にもなっている真実の大倶利伽羅剣、罪業を断ち炎の浄化を司る不動明王の神刀に、近づくことが出来た。 菩薩ともなりうる大切な衆生があっけなく死んでしまう無常。年を経ないヒトならざる自分にも、愛と別れる苦しみが理解できる事実。

吾平と人として交わった日々があってこそ、その菩薩心は倶利伽羅に届いた。石切丸さんが刀剣としての事実…自分が修羅界にもいるということをこの『演劇』で学んだように、大倶利伽羅もまた、自分が慈悲と仏性を備えていることに気づけた。二振りの刀が交わることで、修羅と菩薩相住む世界が見える

刀剣と人間、超越者と感情のある俗人。 相矛盾する宿命に苛まれつつ、その両方を大事にしていかなければいけない刀剣男子の物語として、二人がぶつかるのはとても良かったです。 どっちかに偏ると、時間遡行軍や検非違使になってしまうわけで。折れない限り、菩薩と修羅両方として生きなければいけない

最後に本丸の日常に帰還したように、家康が死んでも信康が殺されても、刀剣男子の生き方は人と重なることなく、別の軸で進んでいく。 しかし人に接近し、その温もりと痛みを学んだことは、時を守る超越の戦士としての彼らに、戦い続けるための足場を与え、戦いに迷わない想い出と変化を産む。

他の刀剣男子もまた、様々な戦い、様々な『演劇』のなかで何かを学び、幾度も己を鍛えなおして『刀剣男子』たり得ようと努力しているのかなぁとも思わされる、いい舞台でした。 キャラを壊さない範囲で、しっかり人格を前に進め、物語が停滞しないうねりを産んでいたのが、全体的に面白かったです。

仏教は自分が興味のある領域なので、読むための補助線として勝手に配置してしまいましたが、門外漢の無作法だと思ってください。 刀剣はただの物質ではなく、奇跡を希われるカミであり、人斬り包丁であり、武士の魂でもある。ここら辺の多層性を睨みつつ、大河劇としてどっしり進めていました。

なかなかよい観劇体験になりまして、とても面白かったです。ご推薦、ありがとうございました。