ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第四話『君は道具でなく、その名が似合う人になるんだ』感想

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第四話『君は道具でなく、その名が似合う人になるんだ』
あやめよ、すみれよ、祈りを吸い上げ、美しく咲き誇らんことを。
殺戮の犬が人の世に混じり、不器用な牙で真心を咥え上げていく物語も第四話目。
ヒールの似合わない褐色のサンドリヨン・アイリスに同行して、家族と故郷を学んでいくお話でした。

強がって自分を隠すアイリスと、あまりにも真っ直ぐに事実だけを口にするヴァイオレット。
第1話から噛み合わない様子を見せていた二人が、美しきカザリの風土に包まれ、『家』の中だけに許された衝突と和解を呼吸しながら、お互いに接近し、理解していく。
美しすぎる銀腕の人形の不器用な生き直しに付き合いつつ、不安定なヒールで背伸びしていたアイリスもまた、職業を手に入れた大人であり、未だ父母の愛情に包まれる子供でもある自分を受け入れていく。
その思いを代筆しながら、ヴァイオレットも人間の情、言葉を超えながら言葉にしなければ伝わらない、複雑なコミュニケーションを学んでいく。

カザリの美しい風景(おそらく衣食住の文化含めて、タイ/ミャンマー国境付近に住むモン族が元ネタ)、繊細な表情のやり取り、繰り返されるメタファーの変奏が、少女と女の中間地点にいる二人の変化を見事に伝えてくる、綺麗なエピソードでした。
とにかくカザリの空と水が青くて美しく、曇りなく光を反射する様が印象的で。
アイリスの体に満ちた、故郷と幼年期への反発がゆっくりと解け、戦場に未だ囚われているヴァイオレットが言葉にならない感情を抱くに相応しい、いい景色でした。
美術が強いと、『この世のものとは思えないほど美しい風景と、それを見ることで湧き上がる感情』を圧倒的な絵力で飲み込ませることが出来て、ドラマ的に強いな。


というわけで、第3話に引き続いて『会社≒ホーム』を飛び出していく今回のお話。
ヴァイオレット(と僕ら)にとっては異郷への旅ですが、アイリスにとっては故郷(ホーム)への帰還であり、名も親もないヴァイオレットがこれに同行することで、見知らぬ『家』の意味を知っていく形です。
今回も『行って、帰ってくる』構造は共通していて、お話は起因となる会社でのアクシデントを描いてから夜の列車を描き、駅で泥を踏み、様々な衝突と理解があって、ふたたび駅に戻る。
泥を踏んで、今度は昼間の列車で帰り、物語が終わる。

形式が同じなだけに、行きの列車のギクシャクした夜の空気と帰りの列車での打ち解けた気配、あるいは二回繰り返される『泥水をヒールで踏む』シーンでのアイリスの表情の違いなどは、とてもわかり易くなっています。
その差異は彼女たちが故郷への帰還(あるいは異郷への旅)で学び、手に入れ、再獲得したものが生み出していて、今回のお話は背伸びのためのヒールが泥に汚れたとしても、アイリスが等身大で苦笑いできるようになるまでの物語なのだ、と言えるでしょう。

第1話で暗示されていた、背伸びの道具としてのヒール。
それは子供ではない自分を肯定するための鎧であり、ドールとして世間に打って出るための武器でもあり、しかしアイリスの身の丈にはあっていません。
今回の物語が発生する起因……階段からの落下も、その足元の不安定さから生まれています。
今回はとにかく足がよく喋る回で、『ああ、武本康弘のコンテだ……』とつくづく思わされるわけですが、その最初は彼女が自分の足でしっかり立てない所から始まるわけです。
落下するアイリスに『大人の女」であるカトレアが対応できない中、即座に反応できているヴァイオレットの『兵器』としての優秀さ、不器用でも命に手を差し伸べようとする善良さが出てて、あのスローモーションは相当に好きなシーンですね。


『自分の足で立てない』というのは無論、身体の具象的表現であると同時に、精神と社会的立場を象徴してもいます。
ここらへんは第3話でのお兄ちゃんの演出にも重なるところですが、いまだドールとしての指名がないアイリスは、世間にも自分自身にも、己を証明できていない不安定な状況にある。
それでも背伸びをして、一人前の職業婦人たらんと戦っているわけですが、そこから落っこちて(ドール最大の武器である)腕を損なう所から、物語が開始します。
ヴァイオレットは損なわれた身体の補助役、手紙という言語の代弁者、誰かを支えるリハビリテーション要因として、今回物語に滑り込む。

電車の中のモノローグで『よく分からない』と評されるヴァイオレットとアイリスが、相互理解を深めていく今回のお話。
そういう筋道を知っていると、ヴァイオレットと同じく『腕』をアイリスが損なうのは、非常に分かりやすい必然だといえます。
ヴァイオレットが戦争によって傷つけられたモノを、エリカも一時的にとは言え損なうことでそれを補助する必要が生まれ、物語が走り出し、女たちの間に共感の橋が繋がりだす。
そのための共鳴負傷として、アイリスは『腕』を損なわれていきます。

資源も歴史もないクソ田舎のカザリ……『後方』にあり続けたアイリスにとって、戦争は遠い場所の出来事であり、ルクリアのように身内(に反射して自分も)が傷を受けたわけでもありません。
しかし自分には直接関係のない状況を想像できるのが、人間の能力であり豊かさでもあることを、夜の列車での会話が既に示しています。
アイリスはヴァイオレットの銀腕を見て、『ごめん』と謝る。
直接関係ないのに、傷つき失われたヴァイオレットの痛みを想像(する手助けとして、ギプスに覆われた不自由な手が一つ、仕事をしている気がします)し、嘘や比喩、仄めかしや裏腹な表現に満ちた『戦後のコード』で語る。
それは直接的な理論でしか世界を認識できない、ヴァイオレットの中の『戦争のコード』では読解できないエラーなわけですが、しかしその共鳴能力が、アイリスの根本的な善性であり、子供っぽさでもある。
『戦争』の現実は知りもしないが、しかしそれによって傷ついてしまったヴァイオレットの痛みへは配慮できる。

後にヴァイオレットがカザリで巻き起こすマジレスと暴露の嵐を思うと、アイリスの『言葉にしなくても、自分に直接関係なくても理解できてしまう』能力の高さは、人間社会でマトモに泳いでいくために必要な技術でもあります。
真実をむき出しに、全てを白日のもとにさらけ出すことだけが、幸福な結果を連れてきはしない。
感情を素直に言葉にしても、それは真実に届かない時がある。
平和な『後方』で当たり前の人間的感性を育むことを許されたアイリスは、その事実を身をもって知っているし、常に『戦場』にあり続けたヴァイオレットにとって、剥き出しの事実とはつまり『死』です。
それはいくら隠蔽し回避しようとしても訪れるものであり、最短距離のコミュニケーションだけが、『死』を実利的に回避しうる。
噛み合わない二人のコード・エラーは、二人が過去に身をおいていた世界、包まれていた家庭環境や価値観の差異を、見事に反映してもいるわけです。


リフレインに満ちたこの物語、今回も当然繰り返されるモチーフがあります。
『足元』を幾度も写すカメラ、『自分の足で立つ/立てない』という行為、あるいは明暗のバランスによる心理の表現、『永遠の花園(エヴァーガーデン)』としての世界を充たす花(ヴァイオレット、アイリス、エリカ、あるいはカトレア)。
会社の階段で演じられたマジレス漫才(エリカがそれを見て微笑んでいるのが、彼女とヴァイオレットの間の関係変化を見せているようで面白い)は、観客を両親に変えて幾度も演じられる。
そんな繰り返しの一つとして、何かを目撃したときの変化、自分ではない何かに反射する視線とその受容を、丁寧に丁寧に切り取る筆があります。

これはこのエピソードに限ったものではなく、"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"全体の筆致といえますが、言葉や態度、象徴としての物質に出会ったヒトの反応は、非常に細やかに切り取られる。
一番鮮明なのはヴァイオレットの『銀の腕』を見た時のリアクションで、これは毎回描かれています。
『会社』で、『学校』で、今回は『家』で、ヴァイオレットが受けた傷と不具の象徴が顕になる度、人々はショックを受け、様々な反応を返す。
その反射が、キャラクターが持つ感受性や優しさを図るバロメーターにもなっていて、面白い共通基準だといえます。

夜の電車で、ランタンのオレンジの光(これも繰り返し使用される、緊密な親愛の象徴ですね)に照らされながら、アイリスは自分の何気ない発言がヴァイオレットの銀腕に反射したことを知る。
人形である彼女は、その言葉に気づかないけども、反射された光はアイリスの感受性を見事に貫いて、背伸びの仮面の奥にある優しさを溢れさせている。
自分のものではない痛み、自分のものではない責任を(ある意味勝手に)感じ取って、謝ってしまう優しさと、それを素直に表明できない頑なさ。
職業婦人として身を立てるべく、必死に小さな身の丈を伸ばしているアイリスにとって、自分のナイーブさを表に出さない鎧は、簡単には脱げないわけです。


ここまで『ツンツンしたイヤミな同僚』としての顔が強調されてきたアイリスですが、『会社』を離れ、ヴァイオレットと緊密にならざるをえない列車の旅……『外』に出ることで、その人格がクローズアップで描かれる形になっています。
舞台にたどり着くまでの夜の列車で、『案外繊細で、優しくて、でもなかなか素直に離れない子なんだな』というイメージを、スマートに伝えられているのは、非常に鋭い配置です。
ここでうっすら感じ取ったイメージは、空が美しく高く青いカザリの自然のなかで拡大し、その広いキャンパスをアイリスの迷いが、それに付き従うヴァイオレットの成長が駆け回る。
その一手目として、ちゃんとアイリスを『案外いいやつ』と描けているのは、好きだし強いなと思うわけです。

帰りの電車で、婉曲な表現を使い謝意を表明しようとしたアイリスは、拙い子供のまま『言わなくても判ること』がさっぱり理解できないヴァイオレットを見ます。
故郷での衝突を経て、素足で歩き鎧を脱ぐことの意味を知ったアイリスは、行きの帰りでは見せなかった歩み寄り……『言わなくても判ることを、素直に言葉にする』行為に飛び込んでいきます。
アイリスがそういう存在になれたこと、あるいはアイリスにそういう行動をとらせる存在に、ヴァイオレットがなったこと。
夜と昼の電車のやり取りを対置すると、そういうエピソードの歩みがより、鮮明になる気がしますね。

ヴァイオレットの銀腕は『家』の中でも公開され、大人たちはショックを受けつつ上品に(戦後のコードに基づいて)それを覆い隠し、子供たちは見たまま『きれい』と口にする。
エピソードの主役と言えるアイリスの、感情の投射と反射を切り取る今回ですが、それ以外の人がヴァイオレット・エヴァーガーデンをどう受け取るかも、細やかに描かれています。
そのための反射板として、喪失と美麗が同居している銀の腕は、有効なマテリアルなのでしょう。


さて、列車は夜闇を抜けてカザリに付き、少女たちは『家族』と対面します。
両親は名前を偽って娘を呼びつけ、娘は花形ドールと自分を飾る。
お互いを愛しているからこそへばりつく虚飾と虚偽を、当然ヴァイオレットは理解できないため、ガンッガンマジレス入れて混ぜっ返す。
波乱の予感と笑いのある、良い出だしです。

死んだ曾祖母(『死人への/からの手紙』はヴァイオレットから少佐、あるいはルクリアから両親へのそれと、意味深な反射を見せていますね)を名乗り、仕事ではなく家庭内コミュニケーションとして、アイリスを呼びつけた母。
『後方』に根を張って『家』を守っている彼女にとって、アイリスは未だ幼い子供であり、その幸福は母たる自分が与えてあげなければいけないものです。

一方娘たるアイリスはライデンに飛び出し、カトレアの危うい胸元に代表される『大人の女』に憧れ、無理してヒールを履いた。
そこには母に理解できない(『後方』にいた彼女のおじ、そこに反射しているカトレアが『戦争』を理解できないように)幸福があり、『家』に縛られない幸福がある。
アイリスが嘘の指名に激発するのは、『会社』で確立しようと頑張っている職業婦人の都会的な幸福、ドールとしてのプライドに泥をなすりつけられたと感じたからでしょう。
これを証明するように、油断なくカメラが下がって、泥まみれの高いヒールを写します。

母は(冒頭抜け目なく挿入される、貴族院庶民院に別れた『戦後の投票』が存在している)新しい世界/都会を理解できず、そこで娘が見つけた憧れと幸福を理解できない。
だから嘘をついて、娘を故郷に呼びつけた。
娘もまた、自分が見つけたけれども追いつけない理想を演じ、母に嘘をつく。

そして嘘を理解できない傍観者たるヴァイオレットは、そこに存在している虚栄と無理解と愛情も当然理解できないまま、杓子定規に規定を運用しようとします。
異常なカロリーで展開するホームでの『ご挨拶』が、『人形』としてのヴァイオレットの美しさと無機質さを描いているとしたら、アイリスの激発に覆いかぶさるように『嘘つかれたんで帰ります。規約違反です』と言い出したシーンは、『欠陥兵器』としてのヴァイオレットのポンコツっぷりを切り取っている気がします。

空気も常識も読まないヴァイオレットが、落とし所が見つからない親子のすれ違いに水をかけ、一旦『家』に二人を引き込む仕事を(結果的に)しているのは、結構面白いところです。
ヴァイオレットは人間社会に馴染めない美獣であり、美しすぎる人形なわけですが、その透明さが不思議な反射を引き起こして、人を魅了したり状況を良くすることがある。
職業へのプライドに泥をぶっかけられたアイリスと、娘恋しゆえの愛で幸福を押し付けてくる母の衝突が、あの駅前で起きていたら一体どうなっていたかと考えると、あの『帰ります』は結構なファインプレーだったんじゃないでしょうか。
なんかそういう、意図してないんだけどへんてこな場所で運命が繋がっちゃう瞬間の不思議さと笑いをこのアニメ、時々巧く切り取ってくる所が好きです。


『家』に潜り込んだ一行は、新たにクソ真面目代筆機械・ヴァイオレットちゃんと契約を果たし、物語は脱線から逃れます。(『一つしかコードを持っておらず、他のコードが読めない』というヴァイオレットの描写も、繰り返し顔を見せるリフレインですかね)
『家』を舞台にする今回の物語は、必然的に名前も親も持たずに生まれたヴァイオレットの空疎(とその充足対象としての少佐)を強調するわけですが、アイリスが幸福の内に祝われる誕生日を、おそらくヴァイオレットは持っていない。
幸福な家族史を閉じ込めたかのような、白黒の家族写真(第3話でスペンサー家に飾られていたものとは対照的に、喪失ではなく不変を表すフェティッシュであり、『変われないこと』は必ずしも幸福ではない)もまた、ヴァイオレットには持ち得ない。

彼女は家族の対峙を横から見る傍観者であり、そのスタンスは横から画面を切り取るレイアウトにも現れています。
カトレアと両親、そこから距離と柱を一本入れて叔父夫婦が配置されている構図ですが、ヴァイオレットが銀腕を晒した瞬間、障壁を乗り越えて子供たちが駆け寄る描写が面白い。
今回のお話はヒールと職業意識で自分を鎧ったカトレアが、両親に愛され両親を愛する子供の自分を否定し、迷い、肯定するまでの物語で(もありま)す。
大人はまっすぐに見ない銀の腕を『綺麗』と駆け寄る子供は、ヴァイオレットの稚さと必死さを理解し、そこに接近していくカトレアの変化を、静かに予兆しているように思うのです。

児童期を絶対視するのではなく、そこから飛び出し別の存在になっていく『大人の女(候補)』アイリスを母が認めていく話でもあるし、その相補性が良いエピソードでもありますが。
都会と田舎、先進と守旧、会社と家庭、大人と子供、親と娘。
それぞれ相反しつつ惹かれ合って、衝突して理解し合って、より良い道を探して踏み出していくっていう作りは、ここまで四話全てに共通するところかなぁ。

さて、母は自分が信じ体現してきた『家』の価値を娘の幸福とし、『結婚』の準備としてパーティーを行います。
娘の人生を決める大事な行動なのに、一人前の大人に必要な相談や連絡(それこそ、後に描かれる詫び状のように)は一切せず、アイリス自身の意志を無視した行動。
己の願いや想いが、言葉にせずとも伝わると信じているところは、親子どっか似ていて面白いですね。

ここら辺から心理や物語の行く末をライティングに固くする武本演出が唸りを上げだして、明るい日差しの中にいるはずなのに顔に影が差し、薄暗い気配が漂いはじめます。
都会に出ていった娘と、田舎に残った母の気持ちは言葉にならず、この段階では衝突ばかりを生み出すわけで、そりゃあ照明も暗くなるよね、っていう。
カザリの高い空から降り注ぐ日差しが暴力的に真っ白なのが、二人の思いが強すぎて影を産んでいる情景を巧く映していて、結構好きなシーンです。
つうか京アニのビカビカ光が好き。


時は夕暮れを経て夜となり、広い場所で沢山の人が接していた時間が終わります。
青く美しい静寂が世界を包みつつ、ヴァイオレットはリストに従って招待状を描いたり、それを配達したりする。
静かな夜の光が、ちょっとずつヴァイオレットの異形性を覆い隠し、個人と個人の緊密な距離を生み出す助けになっているのは、なかなか面白い運び方です。

リストを前にしたヴァイオレットとアイリスのマジレス漫才もなかなか面白いですが、この段階ではエイモン・スノーへの失恋をアイリスは公開せず、ただただ『招待状を出すな』と口にするだけです。
そこに何かがあることは、宛名に揺れる瞳のクローズアップで良く分かるわけですが、しかし言語化はしない。
あらゆるものが明示されないと理解できないヴァイオレットにとって、それは不可解な行動なので、幾度も問い直し正論で詰めて行く形になる。
『なぜ? どうして?』という素直な疑問を口にできるヴァイオレットの子供らしさと、自分の真実を簡単には言葉に出来ないアイリスの成熟が、奇妙にぶつかり合うシーンです。
傍観者であるヴァイオレットと向き合う時アイリスが『横』を取ってる(当事者である母と向き合う時は『前』)とか、日差しが和らぐ午後のはずなのに母といがみ合ってるときより陰りが柔らかいとか、このアニメの心理表現がよく見えもするな。

ヴァイオレットが『招待状を出す=結婚相手を決める』主体性を、アイリス当人ではなく両親に見ているのは、結構面白いところで。
ヴァイオレットはあくまで『指名され、カザリまで出張代筆に来た』という最初のストーリー/コード/茶番から離れず(離れることが出来ず)、契約というストーリーで状況を読んでいる。
でもその虚飾はとっくに剥がれていて、物語は母と子の成長の綱引き、お互いの現在を素直に見つめられない悲喜劇へと足場を映している。
その変化(『戦場』から『戦後』への移り変わり含む)に一人取り残されてしまうのが、寄る辺ない人形たるヴァイオレットの宿命であり、説明されないまま場面転換を読み解かなければならない人生コードの難しさ(と滑稽さ)を、楽しく描いていると思います。


定点で早回しする経時表現(第1話の夜と夜明け、第2話のツユクサの開花の再演)を経て、カザリの静かな夜が訪れるわけですが、ここでの親父さんとヴァイオレットの会話は、凄く良い。
前回のお兄ちゃんと良い、僕はヴァイオレットが冴えない男性と交流するシーンに、妙な興奮を覚えているようです。
別にオッサンサイドに自己投影しているわけではないですが、異質なものとヴァイオレットが繋がると、共通点が多い相手よりも深く彼女の心が耕されて、色んな種がまかれる気がするんですよね。

その開花として、『大したもてなしじゃない』と親父さんが差し出す謙遜への、ヴァイオレットのリアクションはとても良い。
親父さんは社交辞令というか定型句というか、ともかく言葉通りの意味で『大したもてなしじゃない』という言葉を使っているわけですが、我らがマジレスマシーン・ヴァイオレットちゃんはそれを文字通り受け取る。
『つまらないものなら、つまらないからいらない』というド直球の返しを、苦笑で受けるあたり親父さん優しいなって感じですが、その先でヴァイオレットは、非常に曖昧なものに出会うわけです。

ただ広く、青く、高いカザリの景色。
それはヴァイオレットが出会った、巧く言語化出来ない、しかし善いものとして心を揺さぶる、非常に力強いものです。
それがそこにあるだけで、意味を超越して『大したもてなし』になってしまうような、都会にはない風景の力。
それをヴァイオレットは感じ取り、ここまで彼女を支配していた直接的な明文化……『戦場』のコードからはみ出した感慨を、なんとか親父さんに伝えようとする。

語彙の少ない子供のような彼女の仕草を、親父さんは間近で感じ取って、微笑みで受け取る。
その時もしかしたら、同じ風景をアイリスと歩き、幼い言葉で気持ちを伝えてきた時代が思い出されているかもしれない。(身勝手な妄想の暴走です)
後にアイリスが『ヒトの気持ちがわからない』という言葉でヴァイオレットを傷つけ、その反射から自分自身を、ヴァイオレットの幼さを理解していくのにとても似た運動が、ここでも発生している。

第3話での『黄金のライデン』もそうですが、空疎なヴァイオレットの心に染み込んでいく感動が、非常に鮮烈な美術でドカンと叩きつけられるのは、非常にパワフルです。
あの青く美しい夜を見ると、ヴァイオレットと同じように、言葉にならない感慨がワーッと胸の奥から染み出してくる。
そういう問答無用の圧を生み出せているのは、かなり過剰品質(と受け止められ)気味なこのアニメが、自分の強さを最適にぶん殴ってきてるポイントだと思います。

あの風景に出会ったヴァイオレットは、今まで知らなかった何かに必死に近づこうとし、その歩みが彼女を(彼女が知りたい、なりたいと願う)人間に近づけていく。
その運動に必要な爆発力として、美麗な背景を無言でぶん回して殴るのは、僕は正着だと思うんですよね。
彼女のヒトへの歩みが物語の背骨であることを考えると、その起因となる数多の情景は、どれだけ強くても足らないわけだし。


さて、夜が明けて陰りのない光が世界を包む、ハレの誕生パーティ。
アイリスは都会の衣装(ドールという職業)をぬいで、カラフルなカザリの民族衣装へと着替えます。
花を意匠化した髪飾り、フラットな革のサンダルは、彼女が自分を鎧うために必要だった武装を剥ぎ取って、必死に背伸びして維持していた『大人の女』としてのアイリスを武装解除してしまう。
母の望むままに、将来の妻として品定めされる田舎の家庭的価値の中に、笑顔を貼り付けたまま捲りこまれてしまうわけです。
そんな彼女最後の武装が、アクシデントで手に入れたギブスであり、よく判らないままのヴァイオレットとの共通項なのは、ちょっと面白いです。
強い武器なので、極力目立たないように画を作っているところが細やか。

しかしそこに違和感を感じているのは、都会に出て別の価値観(カトレアの大きく開いた胸!)を知ったアイリスだけであり、牧歌的なカザリの『家(という牢獄)』に慣れ親しんだ人々は、ごくごく普通に笑顔でいる。
美味しそうな食料がテーブルを飾り、差し出された料理を口に入れることで共感を示す儀式は、非常にスムーズに進行していきます。

結婚という価値を押し付け、娘を職業を持ち成熟した一個人ではなく、幸福を用意してあげなければ自分で立つことが出来ない庇護者として見続ける母は、アイリスの気持ちを推察することなく、状況を進めていく。
エイモンとアイリスの間にある溝は、彼女が郷里に背を向けドールになる(ことを名目に、ただただ田舎から脱出したかった)動機そのものなわけですが、そういう特別性には配慮しない。
おそらく母から押し付けられた花の髪飾りを取って隠し、花嫁としての商品価値を意識して下げるアイリスの防衛行動も、この状態の母には目に入りません。
彼女が信じる『幸福』が、彼女自身の目を塞ぎ、知らぬ間に変化していた娘と世界を認識させない壁になるのは、なかなかに皮肉ですね。

ここでアイリスは自分の視線が初恋の人に引き寄せられるのを意識しつつ、その反射が過去の恥辱を思い出させ、傷つくことを避けるように視線をそらす。
ヴァイオレットの銀腕に反射した『戦争』を素直に受け止め『ごめん』と言える彼女の優しさと強さは、エイモンを前にすると引っ込んでしまいます。
それだけ特殊な力が『愛している』を中心に回る恋の戦いにはあるし、それが受け止められなかった(的確な反射が行われなかった)場合は、人生を変えてしまいたくなるくらいの深い傷を産んだりもする。

ここのなんともいい難い二人の表情を切り取る豊かさは、後にヴァイオレットが今回の旅を自分のものとして受け入れるシーン……呪いであり祝福でもある『愛している』を考える時に、非常によく効いてきます。
アイリスとエイモンが演じた、愛、気まずさ、痛み、未練といった感情が多層に重なり、なんとも名状しがたい色合いの恋愛劇と同じものが、ヴァイオレットの空っぽの心に響き続けて、彼女をドールという職業に縛り付けている。
損なわれた腕だけではなく、未だ巧く処理できない過去の恋を共有できる戦友として、ヴァイオレットとアイリスは接続される宿命にあり、その示唆がここで行われています。
そして、未だ目を開けていない母は、その微細な変化には気づけないわけです。


エイモンは招待状によって、アイリスは母の嘘によって。
お互い自分の意志ではなく白日のもとに引きずり出された(かつて失敗した)恋人たちは、未だ子供のままです。
自分の真実を伏せて安全圏を作りつつ、自分のいいように状況を動かそうとしたアイリスのズルさ(ある種の大人の証明)は、『支配する親、受け入れる子供』という正式なコードを意味もわからず追認するヴァイオレットによって破綻してしまう。

その瞬間、彼女は幼い子供に戻ってしまう。
職業を持ち、状況に合わせて自分を使い分けていく『大人』ではなく、不条理ですらある母の愛情に囚われ、自分の足で歩くことを許されない時代に逆行していくわけです。
この時、足がクローズアップされ『カザリのサンダル』を履いた(つまり『都会のヒール』を履いていない)アイリスが強調されるのは、彼女が都会で手に入れた(あるいは手に入れたかった)もの、そして田舎にやってくることで剥奪されてしまったものを強調していて、とても面白いですね。

薄暗い陰りに一瞬覆われ、楽しい宴席にはふさわしくない怒りと哀しみをむき出しにする娘を見て、母は非常に驚いた声を出す。
自分が盲信する『幸福』が実は狙った所に照射されておらず、娘を負の感情に浸している状況を、彼女はアイリスの表情……自分の行動の反射をそこに見ることで、ようやく認識し始めます。
主賓の身勝手な行動により、宴席という社会的営為(田舎の風習)は水をさされてしまうわけですが、アイリスの無言の反抗は、なんだかんだ彼女を愛している母に深く突き刺さり、眼を覆い隠す『幸福』にヒビを入れ始めます。

自分の手を離れ、己の意志と幸福を持ってあるき出した娘の歩みを、母は非常に複雑で、ショックを受けた顔で見送る。
それは彼女の想定を離れた事態であり、もはやアイリスが(一人前でなくても)ドールという職業を持った『大人』である事実を突きつけられた当惑です。
『家』の圧力によって隠蔽されてきたそれが顔を出せば、当然波風は起こるわけですが、では母の押し付ける『幸福』を唯々諾々と受け入れて事実を置き去りにしていれば、幸福であったのか。
けしてそうではない以上、この衝突と逃走(あるいは闘争)は必然であり、ショックを伴う切開によって真実を暴露していく、大事な手術なのでしょう。
当然、母にとっては慮外の事実であり、それを受け入れるためにはある程度のリハビリテーション期間が必要にはなりますが。


アイリスは部屋にこもり、全てを暴露してしまう白く強い光ではなく、プライバシーを守ってくれる薄暗い闇に身を置きます。
自由意志を尊重してくれない母とヴァイオレット、自分の気持ちを言い表す言葉を持たない無力な自分を叩きつけられ、彼女もまたショックを受ける。
『私は出さないでって言ったじゃん』という言葉をヴァイオレットに投げるのは、自分の意志を尊重し、良いように支配される子供ではないと尊重(アイリスの自尊心を反射)して欲しからでしょう。
でもそれは弱々しく、傷ついた腕(と自尊心)を覆うギブスは、画面の中心を占める。
紐を解かれた高いヒール……機能しないシンデレラのガラスの靴、あるいは武装解除された鎧を印象的に切り取ってくる意味は、非常に鮮明です。

戦場に置き去りにされ心理の発育機会を得られなかったヴァイオレットは、問いと答えが常にシンプルに(時に銃弾で)繋がっている『戦場』のコードを私室でも援用し、『なぜ?』『どうして?』と聞いてきます。
みんなが流通させている論理的な建前では、何も問題のない行為じゃないか、と。
しかし複雑怪奇な『戦後』のコードは、建前の奥に本音があり、理論の裏で感情が渦を巻いている。
それをほじくり返すことは恥と怒り、尊厳と自立を踏みつけにしてしまう危険行為なわけだけども、そういう人間的なデリケートさに配慮をすることは、『戦場』においては不要な贅沢でした。
だから兵器として完成されていたヴァイオレットはその必要性を学ぶことなく、壊れた機械としてカザリにやってきて、子供のように問う。

ヴァイオレットの『どうして?』戦法には、悪意も揶揄もありません。
彼女はただ純粋に、『戦後』(あるいは『大人』)の社会が回転するために必要な言語的潤滑油の存在を知らないから、剥き出しの事実を思い切りねじ込んでくる。
それはある種のあけすけな強さを(無自覚に)持ちつつ、同時に心に突き刺さって(無自覚に)軋み、痛みを生む

ズケズケと無意識に、心の一番柔らかい花園を踏み荒らしてくるヴァイオレットに対応するべく、アイリスは泣きじゃくりながら全ての防壁を外し、同じく子供の言語で語り始めます。
その時、彼女の足は『都会』のヒールでも『田舎』のサンダルでも覆われない、とても無防備な素足です。
何も着飾らない、生まれたままの姿に戻らないと問題は解決しないし、素足でも彼女は自分の足で立ち、自分の意志と弱さを吠える強さを持っているわけです。

しかしヴァイオレットが『お前はフラれた。どうしようもないほどの負け犬だ』とあんまりな真実を確認することで、彼女の腰は砕け、自力で立つことはできなくなる。
ここに来てようやく、ヴァイオレットも自分の幼くむき出しな言葉が、どれだけエリカの自尊心を傷つけ、涙を産んできたかを理解します。
エリカが行きの電車の段階ですでに持っていた、自分から飛び出したメッセージが相手に反射し、影響をあたえることへの配慮に、ようやく手をかけた、とも言えますか。
子供そのままに泣きじゃくるエリカの声が、なんとも痛ましく、しかし同時にここまで壊して戻ってしまえば、ゼロから作り直すことも可能と思わせます。


ランプに温かいオレンジが灯り、父母と叔父叔母がそれを取り囲む『家』の構図。
そこにヴァイオレットは降りてきて(滅茶苦茶にされた子供のアイリスは、当然『家』にコミットできる状態ではないので狭くて暗い私室に居続ける)、『エリカが泣いている』と告げる。
感情をあらわに泣きじゃくること、自生を忘れた子供でいることを、他者に向かって(暗い密室を飛び出して)公開してしまうことの暴力性を、ヴァイオレットは当然配慮できない。
そういう繊細さは、『戦場』においては夾雑物であり、彼女自身もまた、傷つかない人形……の殻に閉じ込められて、柔らかい心を持った人間としての自分を、まだ知らないからです。
様々なヒトの思いと手紙に寄り添い、感情の反射に晒されながらそういう自分を測位していくのが、多分このアニメの大きな縦軸なのでしょう。

娘が子供で(も)あるという事実を叩きつけられ、母は娘を心配する。
恋と敗北、へし折られたプライドと幼さの暴露がどれだけ人間の心をかき回すかという、ある種の人間にとっては当たり前で、またある種の人間にとっては理解不能なうねりを、ヴァイオレットは当然認識していないので、この問へと答えを返すことは出来ません。
それが出来るようなら、彼女は『愛してる』の意味を知るべくドールを志しはしないし、『戦場』を遠く離れた人間の世界で、ギクシャクと不器用に踊ることもないわけで。

アイリスの涙の代わりに、雨がカザリの水田に降り注いでいきます。
薄暗い世界の中で一点灯るオレンジは、『家』の光。
少女を束縛する幸福の牢獄であり、思い込みを脱して成長と真実に向かって走り出す基地にもなり得る、小さな小さな屋根です。


母は『家』の光を閉じ込めたランタンを持ち、娘を訪れます。
『お母さんがあなたを幸福にしてあげるから、あなたは自分の足で立つ必要なんてないのよ。』
そういうつもりはないんでしょうが、声掛けの言葉は濃厚な呪いとなり、アイリスもフトンで耳をふさぎ、柔らかな自我を防衛しているだけでは追いつかなくなります。
扉を開け、『私は私よ!』と大声で吠え、『お母さんが私を傷つけたの! ここにはもう帰ってこないの!』という決意を叩きつける。
自分の想定から出る娘の反抗を目の当たりにして、母はやはり息を呑み、言葉に詰まります。

ここで自分の愛が娘を縛り付けていたことに思い至り、言葉にならない思いを胸の中で反芻できること……自分の行いがどのように相手を傷つけたかの反射を認識できる能力は、アイリスと母共通のものです。
何とも言えない表情で、胸を突き刺す娘の言葉を受け止めた母の表情を、アイリスもまた受け止める。
自分が激情に任せて投げつけた一撃が、母にどのように反射したのか、それが自分の胸の中でどう残響するかを、ナイーブに考える。
その感受性は、母と娘の間に(時に障害となり、時に痛みを生み出すととしても)確かに存在していた愛の心理を、ちゃんと認識させるわけです。

お互い、自尊心や幸福の押しつけで視界が曇らされていたとしても、感情をぶつけて傷つく相手の顔と、それを見て傷ついてしまう自分の心を、完全に無視できるわけではない。
その素直さがアイリスの美質であり、『大人の女』を夢見てヒールで背伸びしなくても、足元を支えてくれる強さにもなる。
オレンジの光の中の交錯は、そういう予感をしっかりと孕んでいますし、親子の間でそれが共通していることで『家』の持つポジティブな意味、血に刻まれた暖かな継承と保護を想起させるものにもなっています。


さて、何とも言えない緊張感漂う家族の重力場に、空気読めないヴァイオレットはズカズカと上がり込みます。
秘密(とアイリスは思っているもの)を公開するのは、みんなが心配していたから。
命をつなぐ食事をまず持ってくるところ含めて、ヴァイオレットもまた、人間の情を完全に蒸発させているわけではないのですが、その発露の仕方……適切なコードを未だ学べていない。

その口から出る剥き出しの善意はアイリスを苛立たせ、「アンタってほんっと……人間(ヒト)の気持ちが解かんないのね!」という言葉を言わせてしまう。
それは不器用な人形、社会不適合な美獣であることを自認できているヴァイオレットに深く突き刺さって、彼女もまた、非常に複雑な表情を見せて『申し訳ありません……』と謝る。(行きの電車で、銀腕を見たアイリスとの、主客を入れ替えた再演)

自分の剥き出しの言葉が、色んな人を怒らせ、戸惑わせ、苛立たせることを、ヴァイオレットも認識していないわけではない。
その真っ直ぐさを乗り越えなければ、求める『愛してる』の真実、あるいは学校で学んだ『より良きドール』の生き方にはたどり着けないと知っているのに、『戦場』で形作られた人格は思うように動いてくれない。
その未熟さを思い知らされ、自分の言葉の反射をアイリスの中に見て、彼女は深緑の瞳を曇らせます。
『自分が無力な子供であることを思い知らされる』という意味では、アイリスの私室でぶっこんだ『どうして』攻撃の意趣返しを、被害者であるアイリスに投げ返された、とも言えるか。


『大人』なアイリスが避けていた、自分の心の中の真実を素直に言葉にしていく行為。
言われないと分からない、そういう能力が獲得(あるいは快復)されていないヴァイオレットは、気恥ずかしさや自己防衛とは無縁の率直さで、『人の心がわからない』自分の現状、『人の心を分かりたい』自分の心を、訥々と語っていきます。

オレンジのランタンに照らされ、言葉と思い、純粋さと成熟の複雑な関係を語るヴァイオレットの言葉は娘と母に届いて、彼女達もまた、ヴァイオレットに反射している自分を見ることになります。
自分が本当はどんな存在で、何を求めているのかわからない……自身を含めた『人の心』が見えないのは、大人のふりをしているアイリスも、大人になった娘を見ようとしない母も、また同じなのだと、ちゃんと思い至る。
闇の中で乱反射する感情と光、言葉と写像をしっかり目に入れ、それに素直に向かい合う準備が、ヴァイオレットを中心に整っいてきます。

ヴァイオレットの謝罪の中に自分(と、自分とよく似た愛すべきヴァイオレットの姿)を見つけたアイリスは、彼女の不器用さの奥にある真心を受け入れ、警戒を解く。
それを見ていた母はランタンを持って階下に下がり、見守らなければならない『子供』として娘を見る行為を止める。
それは嘘をついて郷里に呼びつけた時には、全く尊重できなかった娘の『職業』を、そこに至ったアイリスの成長を、仕事仲間であるヴァイオレットとのやり取り、他者を尊重できる娘の姿を見ることで確認できたからではないかと、僕は思います。

娘には、トンチキで不器用すぎるけど嘘をつかない仲間がいて、その子は自分にも通じる心の本当の部分を、拙い言葉で投げかけてきた。
娘もまた、そんな同僚の言葉を、それを生み出してしまった自分の言葉の棘を思い直し、受け入れる豊かさをいつの間にか獲得していた。
そしてそれは、自分の中にもある大事な資質だった。
そう思い至ることで、母は自分の手を離れていく『大人』のアイリスを受け入れ、自分が押し付けていた『幸福』を手放す勇気を手に入れられたのではないかと、思わせるシーンです。

母の来訪から始まる女たちの三角形には、非常に複雑な感情の乱反射と、そこに埋もれた真実を見落とさず、歩き方を変え自分で立ち直す強さが、みっしりと埋め込まれていたように感じます。
そこには無理解と身勝手がそれぞれ存在していて、無遠慮に言動を投げつけることでお互いを傷つけているのだけども、傷ついた相手を見ること、それを思いやることもまた、ぶつかったからこそ可能になる。
自分のエゴが対象に反射することで、自分の真実を計測し、見えていなかった誠意を反射の中に見つけることで、他人にも自分にも優しくなれる。
当たり前に至らなくて当たり前に優しい家族の衝突を(時に過剰に思えるほど)丁寧に追うことで、そういう人間の諸相が見えるのは、僕はとても素晴らしいことだと思います。


『アンタと私は似てる』というアイリスの敗北宣言を、『そうなのですか?』とヴァイオレットが聞き返した(そしてそれをアイリスが『まあ、そうね』と柔らかく受容した)後、少女たちは母の手を借りず、自分たちでオレンジの灯火を点けます。
静かな闇の一条の光の中で、アイリスはようやくヴァイオレットの真正面に立って、『言わなくても良いこと』として伏せてきた過去の想い出(屈辱、あるいは愛)を公開していく。
それは母と繰り広げた痛々しい衝突と切開とはまた違う、語ることで自分を掘り下げ、過去の自分と再開して許容していく、ある種のリハビリテーションです。

エイモンに『愛してる』を投げ、『幼馴染としか思えない』という拒絶(あるいは真実)を反射されたアイリスは、深く傷つく。
自分によく似たアイリスが、過去に経験し『大人になろう!』と決意させられた苦い思い出を共有することで、ヴァイオレットは少佐が自分に投げた『愛している』が勇気の言葉であることを知っていきます。
前回ヴァイオレットがモールバラ兄妹を通じて慈しみを学んだように、あるいは第2話でエリカがヴァイオレットを通して自分の望みと出会ったように、この物語は他者に投げかけられ反射した自分の思いと、それを受け返し受け止めてくれる他者への視線で、コアの部分が構成されている気がしますね。
それは幸福を相互に増幅させるコミュニケーションであり、必ずしも成功するわけではなく常に困難で、でもとてもかけがえのないものを獲得できる、貴重で大切な働きかけなわけです。

ここでの告白は愛と勇気の過去語りであると同時に、アイリスが『なぜドールになったのか』を語る起源の物語でもあります。
これは作品すべてを通し、ヴァイオレット(と他のあらゆるドール)に投げ替えられている根源の問です。
ここでこれに解答することで、アイリスもまた静かな『戦後』の中で当たり前の人生を戦い、一歩ずつ勝利しつつある戦友……物語のテーマに深く関わるキャラクターであることを証明しているように、僕は感じました。
ここが明らかにならないと、やっぱキャラの根っこは見えないわけで、カトレアやベネディクト、クラウディアが個別にヴァイオレットと向かい合うときもまた、同じ問いが投げかけられ、逡巡や痛みを経て真摯に答えることになるでしょう。

アイリスの起源開示を受け、ヴァイオレットもまた自分の起源を(エリカやルクリアやお兄ちゃんにそうしたように)投げていく。
緑のブローチはクラウディアからの、学校のブローチはローダンセ先生からの、思いやりの証。
頼りない足取りで不器用に、それでも自分の足で立とうとしている跛足の獣に、自分と同じ人間を見たからこそ贈られた誇りある装飾品を、一瞬クローズアップで切り取ってくるのはエモくて良いですね。
告白を共有することで、アイリスもまた贈り物を預ける側……ヴァイオレットの味方になる瞬間でもあるし。

夜闇のダイアログはアイリスのモノローグで閉じられ、かなり直線的な言葉でこの物語の意味、主役であるヴァイオレットが抱えている問題と意志をまとめ上げていきます。
これだけ叩きつけられるのならただの看板ですが、視線や象徴、光や揺らぎを的確に使い、『動く画』としての説得力を異常なほどに詰め込んだ物語の後に配置されると、その難しさを和らげ大意を取るための補助線として、有効に機能すると思います。
というか、このぐらいまっすぐなまとめ長いと、この過剰な質と意味に満ちた物語の微細な変化は、かなりの数の視聴者を当惑させる(多分、あってもなお当惑している人は多いと思う)

そういう機能はさておき、アイリスは『迷える子供』『かつての自分』をヴァイオレットの告白の中に見て、感情の反射を感知し、対応する機能を備えた『大人としての自分』で向かい合おうという決意を、表情に込めていきます。
求めつつ足りない部分、無力さにさいなまれる苦しさは、『家』の窮屈さに直面したこの郷里行で、嫌ってほど思い知らされた。
自分がつまずきかけた痛みに、今目の前にいる不器用な同僚が苛まれているなら、失敗の先輩として少し、出来ることをやろう。
そういう思いに背中を押されて、誰かの手を取ることが出来るのなら。
ヒールで背伸びするよりも遥かにしっかりと、アイリスは『大人』なのではないかと思うわけです。


ヴァイオレットが差し出した真心を完食し、前に進むための推進剤を補充したアイリスは、飾りのない素足を撫でる。
無理な背伸びも、(ある意味では望みつつ、ある意味では)望まない故郷のサンダルでもない、当たり前の自分。
そこには母への反発も、『大人』になりかけるまで自分を育て上げてくれた感謝と愛も、ちゃんとある。
散々泣いて喚いて嘘ついて、アイリスはそんな真実をあるがまま、手で触れられるところまでやってきました。

カバンに閉じ込めたタイプライター(自分が手に入れた『職業』の象徴、ヒールとはまた異なるドールの武装)を見つめた後、アイリスはヴァイオレットに代筆を依頼する。
素足で地面に立ち、不器用で至らない等身大の自分をそのまま社会に立ち上がらせ、自分の柔らかい部分をヴァイオレットに預ける。
それは『愛してる』を投げかけ失敗した過去の傷に、かさぶたを貼り付けて立ち直った証拠です。
勇気を出して裏切られた過去、その痛みの残響を覆い隠そうと必死だった時代が終わり、自分の柔らかな部分を思い切って他者に預ける(ことで、他者に頼られる喜びと尊厳を分け与える)勇気を獲得できたことの、証明なのです。

『大人』の責務として、社会的責務に背中を向ける無礼を詫びる手紙。
そして、未だ『子供』である自分自身を素直に綴る、父母への愛の言葉。
片腕を一時的に喪失することで始まったアイリスの帰郷は、その片腕をヴァイオレットに預け、街で手に入れた『職業』へのプライドと、『田舎』が与えてくれた慈しみへの感謝を形にする形で、収束へ向かっていきます。

アイリスが未だ向き合いきれない、過去の(つまりは現在の)恋人と両親。
ヴァイオレットの真っ直ぐな気質が、ここで最も大事なものを視野に入れ、差出人リストに入れてくるのは、非常に面白い。
時に社会と不協和を見せる彼女のマジレス気質は、『言わなくても良い』で社会を渡っている『大人』の現実を切り裂き、非常に純粋な事実を白日のもとに晒してきます。
この特質を象徴化するべく、このアニメは彼女の曇りのない瞳をアップで切り取り、胸元で輝くブローチの光を、惜しげなくさらされる銀の腕を、何度も写すのでしょう。
見失いかけている真実の反射板として、社会に馴染めない銀腕の美獣は、非常に優れた仕事を時折果たす。

すみれ色の反射に照らされて、アイリスは己を育んだ過去への思い、そこから旅立っていく今の自分自身を素直に見れるようになる。
それを伝えるメディアとして、手紙はとても特別な価値を持ちます。
そして、アイリス(とヴァイオレット)が手に入れた職業は『自動手記人形』であり、真心を伝えるメディアとしての手紙を、誰かのために幾度も書いていく職業なのです。
第2話でエリカが確認し、第3話でルクリアとヴァイオレットがたどり着いた価値を、『街』を離れた私的な空間でも確認する形になっていて、なかなか強いな、と思います。
『手紙だと、素直に言えない心の中を伝えられる』とヴァイオレットが断言できるのは、やっぱり前回初めて書いた手紙が果たした奇跡が、大きな後押しになっているのでしょう。
ポンコツ機械にその価値を教えたローダン先生は、やっぱ歴史の教科書に載るくらい偉い。

『会社』でも『学校』でも『家』でも、人間の心がある所にドールの仕事はあるし、それは常に衝突して正しい道を探しているから、導き役は大事で尊い
そして正しい手紙が見つかるためには、正しい衝突によって事実を切開し、真実と出会い直すこと……複雑な反射の中に身を置き、そこで投げかえられる自己と他者を見つけることが大切である。
今回の旅は、そういう作品内の真実を様々な状況で幾重にも重ねていくエピソードだったと、僕は思いました。


薄暗い夜の帳に守られた娘の部屋から、適切に距離を取った母は、伴侶である父のランタンに照らされつつ、その娘が思いを託した手紙を読みます。
ここで親父さんが、ヴァイオレットの『大した景色』発見に寄り添ったのと同じように、お母さんのパートナーとして静かにいい仕事をしているのが、とても好きで。
アバンで紅茶を押し付けられたクラウディア(女性の名前を持ちつつ、女性ではない存在)を見ても判るように、このアニメは女性たちの狭い連帯をかなり重視している印象が強い。

その狭くて靭やかな紐帯の意味を認めつつも、そこから『男』を弾き出してしまうとなにか凄く狭い場所に落ち着きすぎてしまうなぁ、と(勝手に)危惧しているのですが、ここで親父さんがお母さんに寄り添うことで、目立たないながらも『女』と共にある『男』の意味、『家』のポジティブな価値が、巧くすくい上げられた感じを受けました。
第3話でヴァイオレットにとってお兄ちゃんが、ともすればルクリアよりも大きな他者(に僕には見えた)だったのと同じ安心が、今回の親父さんの描き方からは立ち上がってくるのですよね、個人的に。

アイリスの手紙は『職業』の状況、今の心境を素直に吐露する内容になっていて、嘘から始まった物語が真実にたどり着いて終わる形です。
どうも形式的には同じ場所に帰りつつ、内容的には正反対のものを手に入れている『行って、帰ってくる』構造が、このアニメがエピソードを仕上げるときの基本として据えられてる印象を受けますね。
ヴァイオレットが他者の人生に寄り添い、その旅路を共に体験することで『何か』を手に入れていく骨子を考えると、中間地点で何を獲得したかが見えやすい『行って、帰ってくる』お話は、適した形式なのかもしれません。

手紙は仕事を依頼してくれた両親に感謝し、両親に育まれた自分自身を素直に記述するものです。
同僚であるヴァイオレットが文字通り片腕となり、『良きドール』に必要な洞察力と優しさを自分自身に向けて仕上げた、初めての手紙。
それは『職業』を手に入れた『大人』としてのアイリスと、愛に包まれた『子供』としてのアイリス、その両方を調和させる視線に満ちています。
このような立派な手紙を、選び取った『職業』として手渡されたことが、アイリスを『子供』としてしか見れなかった母が決定的に、『職業婦人』としてのアイリスを肯定し、結婚という(たしかに人間の生き方を豊かにする一大イベントではあるが、他のあらゆる価値と同じく唯一絶対にしてはいけない)自分の掴んだ『幸福』から離れ、娘が選び取った『幸福』を是認するための、最後のひと押しとなります。

傷から始まった嘘へと繋がる今回の旅は、失恋と自然に満ちた故郷にアイリスを導き、ヒールで背伸びしている間は見れなかった過去の自分と、強制的に対面させるものでした。
同じく嘘で娘を引き寄せた母も、成長しつつある娘を正確に認識できず、自分(の中にある、弱く脆い愛子としてのアイリス)の愛情を押し付ける。
お互いを見ず、また自分自身も見ていない二人はすれ違い、ぶつかりあう訳ですが、自分の身勝手さが相手を傷つけてしまう瞬間の反射を、見逃さないナイーブさもまた血縁として共有しています。
ヴァイオレットという(『都会』でも『田舎』でも)異物になってしまう存在を媒介に、愛の乱反射を繰り返すうちに、娘は否定しようとあがいていた無力で無様な『子供』としての自分を、母はそこを乗り越えて前に進みつつある娘を、それぞれ見据える。
その末尾に、『伝えられないものを伝えうる』手紙の魔法が来ることで、アイリスが選び取った『ドールという職業』の特別な力が、二人(と、彼女達を見ているヴァイオレット)に肯定されるというのが、この静かな夜の大団円なんだと思います。
『未来のライデン一の人気ドール』という自称が、過去と向き合い現在を認めることでのみ繋がる未来の輝きをほのかに照らしていて、好きな表現ですね。
そらママンも泣く。


かくして、列車は再び故郷を離れ、都会へと続いていきます。
自分の腕を(おそらく、高く伸びた鼻っ柱も)折ったヒールはしっかりアイリスの体を支え、現実の泥に塗れたとしても、もう嘆きはしない。
惨めで弱くてちっぽけな等身大の自分、それを取り巻く父母の愛を肯定したことで、アイリスの足場はどっしりと地面に刺さり、裸足で立ち上がったときと同じ確かさを宿しています。
水たまりが青く高いカザリの空を反射しているのが、感情と行動が様々な人にぶつかることで、自分自身を測位し続けたこのエピソードらしくて、僕は好きです。

照れ混じりのいい話を振ったら、『請求書は後で送ります』とマジレス漫才を始めるヴァイオレットは、ここに来たときと変わりのない人形のようにも見える。
でも、彼女が娘の同僚として、固有の生きにくさと輝きを兼ね備えた一人の少女として、愛娘を支えてくれる大事な存在だということを、父母は既に知っている。
だから、同じようにみえるオモシロ漫才は、演じる側も見る側にとっても、来たときとは全く違うやり取りに変わっているわけです。

アイリスの真実が詰まった手紙への返信として、親父さんはあやめの花を贈る。
それは両親が彼女を産み落とした時、願いを込めて刻まれた名前という形の祝福です。
ギリシャ神話の虹の女神・イリスの象徴花であり、天と地をつなぐ存在として『メッセージ』の意味を持つあやめの花が導いたからこそ、アイリスは『タイプなんて好きじゃない』のにドールという『職業』を目指したのかもしれません。
手紙が伝えられない思いを内包するように、少女の名と同じ花は彼女が生まれたときから共に歩み、愛に満ちて在った両親の想いを無言で伝えてくれる、特別なメディアなのでしょう。

アイリスは素朴な花束を、鉢植えや花瓶に飾らず、自分の腕で握りしめ、力強く掲げ続ける。
そこに込められたぬくもりを肌で感じるように、あるいはその青い輝きが未来を照らす灯火であるかのように。
それは嘘に導かれてこの故郷にやってきた時には、握っていなかった花束であり、自分の起源(つまりは現在と未来)の刻まれたトロフィーなのです。
そういうものを持ち帰るために、アイリスは『田舎』に戻ってきて、再び『都会』へと旅立っていく。


その歩みに付き合うことで、ヴァイオレット(と僕ら)は『会社』や『都会』の外にも、固有の善性を持っている世界の広さを確認し、ちょっと変わった視線で世界を見ることが出来る様になる。
ヴァイオレットがこの度で、その欠落の全てを埋めることが(当然)出来なかったことは、アイリスが当たり前のように読み取っている無言のメッセージを受信できず、『どうして?』と問いかけなおしていることからも分かります。
彼女は未だ、『戦後』の世界の生き方を知らない子供のままです。

でも、『両親とアイリスの心を繋げるメッセージを、巧く書き上げたい』という善なる願いを、自分のものとして受け止められるようになっている。
天と地を繋げる虹の花のように、人と人の心を繋げる『良きドール』でありたいという思いを、『学校』を出ても持ち続けている。
その変化への意志を、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女がよく分からなかったアイリス(と僕ら視聴者)は、一瞬気恥ずかしさに目をそらしつつ、ヴァイオレットとともに『子供』の自分を肯定できるようになった目線でもって、ちゃんと尊重する。
自分の『大人』な照れ隠しが、何も知らない純朴なヴァイオレットを戸惑わせたこと……反射をしっかり見据えて、『子供』を受け止め導く存在(両親が物語の執着で、ちゃんとたどり着けた場所)として、しっかり自分の足で立とうとする。
二人がそういう関係になれたこと……ここを起点に、より近しい関係になっていくであろうことが、この旅路最大の収穫なのでしょう。

『良い手紙だった。伝わったよ、アンタの書いてくれた手紙』という、真っ直ぐで嘘のない言葉。
背伸びしてヴァイオレットを遠ざけていた時には見せなかった、魂をそのまま表情に写したかのような陰りのない、アイリスの素敵な微笑。
これを受け止めたヴァイオレットは、何も与えられず、何も学べなかった自分自身の状況を素直に反映して、片言の言葉で現実を受け入れていく。
(アイリストは違って)愛で包道を示してくれる親もなく、『戦後』の世界では利点よりも欠陥のほうが大きい『戦争』のコードしか知らない彼女は、美しい人形の外見に閉じ込められた、語彙の少ない小さな子供です。
その未発達をありのままに肯定することが、より良き出発の必要条件であることは、アイリスのくっそ面倒くさい分かれ道と見事に重なるところでしょう。

世界を埋め尽くす満開のアイリスを眼にして、ヴァイオレットの瞳は『大した景色』を見たときのように揺らぎ、言葉にならない言葉を胸の奥に蓄積していく。
名前には願いがあり、自分もまたすみれ色の祈りを少佐に刻まれて、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』となったことを理解する。
そういう決定的に大きな変化が、やっぱり圧倒的に圧力のある美術と、ヴァイオレットの瞳を写すためにあやめの花畑を車窓に反射させてみせる演出技法でしっかり語られているのは、このアニメらしい太さのあるシーンでした。
ほんと『揺らぎ』の表現の美麗さ、多様さが図抜けて凄いな……。


回想の中で、少佐は小さな何も持たない少女に目線を合わせて膝を曲げる。
その動きに合わせて薄暗い影に覆われていた少女の顔から陰りが消えて、少佐は彼が送ることが出来る最大限の、そして唯一の真心を、『ヴァイオレット』に託して送る。
これから戦争の兵器として彼女を使い潰していく彼にとって、せめてそれだけが、祈りを込めて伝えられるメッセージであり、願いだったのでしょう。

蝶が花に寄り添って、運命を導く。(これはカザリの駅についた時、アイリスを家族のもとに導くモチーフのリフレインです)
そこには紫のすみれと、大きな大砲が同居している。
名前も過去も無き戦争兵器として少佐に貸与され、空っぽの心に少佐だけを刻まれて人を殺し続ける未来を暗喩する武器を、ここですみれと一緒に切り取ってくるのが残酷だなぁ、と思います。

少佐が『ヴァイオレット』に込めた『君は道具でなく、その名が似合う人になるんだ』という願いは、他ならぬ少佐自身が敵の殺傷(つまりは味方の安全)を命じることで、踏みにじっていってしまう。
あいりすのが母と演じたような、当たり前の家族の当たり前の衝突と、当たり前の愛情と、当たり前の交流と反射は、これからヴァイオレットが飛び込み壊されていく『戦場』においては、まったく当たり前ではない。
そこには常に、大砲があるのです。

それでも、か弱きすみれの花に込められた願いをヴァイオレットは忘れていないし、その残火が胸に残っているからこそ、『愛しているを知りたい』という切望に突き動かされて、ドールを志し、アイリスとともに旅をした。
そんな生き直しの旅の果てに、『ヴァイオレット』はすみれの似合う少女になれるのか。
そんな未来への負担と期待を、巧く煽るラストカットでした。

紫のすみれの花言葉は『愛』『白昼夢』『あなたのことで頭がいっぱい』。
女性の三美徳のうち、『謙虚』『誠実』を表す花でもあります。(残りは『美』のバラと、『威厳』のユリ)
ヴァイオレットはそれが似合う少女に、なれるのでしょうか?(あるいは、もうなっている?)
神話においてすみれは、ヴィーナスの嫉妬を受けた少女が殴打された果てに花に変わったり、アポロの愛を受け止めきれなかったイアが変じた花ともされます。
複雑で裏腹な愛の物語を、その起源に持つ『ヴァイオレット』の過去と未来が、一体どう変わっていくのか。

それはこれからの物語であり、そこにこの旅で心を繋いだ同僚が大きな助けとなることは、間違いがないでしょう。
この物語は『すみれ(Violet)』の物語であると同時に、アイリスもエリカもカトレアも咲く『永遠の花園(Evergarden)』の物語でもあるわけで。
アイリスが憧れの目で見続けた『蘭の女王』もまた、見た目通りの『大人の女性』ではないんだろうなぁ……個別回、どう掘ってくるかね。

そう考えると、『エヴァーガーデン』を与えてくれたティファニーとの関係を、情を学習したヴァイオレットが再配置する話も、このエピソードへのリフレインとしてあり得るのか。
個人的にはあって欲しいところです。
ヴァイオレットが曇りなく残酷に指摘した『代理品としての養子関係』は真実の一つだったとしても、そこに何らかの情が重なっているからこそ姓を与えて向かい入れた『母』の姿を、いつか今回見たアイリスの母と重ねてくれたら。
それはとてもおもしろい物語でしょうから。


というわけで、少女二人が旅をして、散々迷った挙句に自分と自分を愛してくれる人を見つけ直すお話でした。
過剰とも言える細やかさに可能な限り分け入った結果、時間はかかるは長くなるわ、なかなか難しい感想になってしまったな、と思います。
ただ、これくらい微細視しても破綻しないほど、このアニメは精妙な筆ですごくベーシックな人間の感情を追いかけているし、思いを投げかけそれが反射されることで生まれるハーモニーを、非常に大事にしていることがわかった。
自分の言葉で相手が傷つき、それを見て自分も傷ついてしまうカナリー母娘の業を見ていると、背伸びばかりしていたこれまでのアイリスとは全く違う、ナイーブで優しい素顔を豊かに見つめられる気がしました。

このクオリティだと視聴者は自然、もっとダイナミックで大きい話を想起すると思います。
それこそ過去に時間軸を映し、人が生きたり死んだりの一大事をきめ細かく捕らえ、その業を劇的に描いてったほうが、表現手段とテーマの乖離は少ないかもしれない。
ただ今回の話を見ていて、僕はむしろその乖離(に見えるもの)にこそ、一つのメッセージがあるのかもな、と思うようになりました。

人が生きたり死んだりとは、『戦争』が展開してなお縁のなかった究極の『後方』。
そこで展開される当たり前の親子の物語は、人の生き死にと同じくらい凄く細やかな意味と変化に満ちていて、きめ細やかに切り取る意味があるものなのだ、と。
だから、この筆を選び取って、当たり前に生き直す人々の傷や、痛みや、すれ違いや、乱反射する感情とそれを取り巻く美しい世界を、どっしりと切り取っているのだ、と。
そんなメッセージを、僕は勝手に受信したわけです。

映画監督でいうと小津安二郎的な、当たり前に流れていく時間の中の、静謐な輝き。
それを切り取るにしては、ミニマルというよりマキシマムな方向性に演出が走っているのは、なかなか難しい部分です。
ただ、その美麗さとゴージャスさだけが純化しうる象徴の積み重ねも、またこの作品には生まれうると思うし、すでにかなりの数生まれているようにも思う。
自分が見て取ったそういう結晶を拾い上げていったら、こういう分量になってしまった、という感じですね。

無論、描かれたものから僕が受け取ったものは、真実でも事実でもありません。
それは僕が勝手に受け取ったメッセージであり、身勝手な妄想でしかない。
ただ、そういうメッセージを受け取らせる程にはこのアニメには熱量と真摯さがあり、アニメという形で僕らに手渡された『良き手紙』足りうるのではないかという予感……確信を、僕は既に手に入れています。
平たく言えば、このアニメが好きってことです。
来週も楽しみですね。